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2015年5月25日月曜日

聖霊降臨祭に立つ市


  5 23-25日の聖霊降臨祭の連休、隣町Krefeldにあるリンの古城Burg Linnで毎年恒例のFlachsmarkt「亜麻市」が開かれた。その歴史はLinn地区が都市に昇格した1315年にまで遡るので、中世の名残をとどめる伝統的な市である。










 Flachsとは亜麻の繊維のことで、これを使って出来るのがリンネルである。元々近隣の農夫が栽培した亜麻を馬具や鍋釜などと物々交換するために開いた市だったが、回を重ねるうちに、農夫だけでなくその他の商人や職人、大道芸人も加わり、年に何回か開かれる大きな市に発展した。


 時と共に亜麻栽培が少なくなるにつれ「亜麻市」は徐々にすたれ、1903年には廃止の憂き目を見ることになった。しかし、この伝統ある市を過去のものとするには忍びないと,当地の人々が1975年にこれを復活させたのが今日まで続く「亜麻市」であり、ここラインランドだけでなくドイツ全国や近隣諸国からの職人、手工業者が集う聖霊降臨祭の呼び物になっている。

 初日の523日午前、開場早々に日本の知人をご案内して会場を訪れた。この古城は中世騎士の居城であり、市の背景にはうってつけの背景となる。広大な敷地には草原や池があり、樹木も多い。そこに300以上の露店が立ち並ぶ様は見事というほかない。

 やはり面白いのは、古い歴史を思い起させる職人たちの作る品物だろう。染色の屋台では自然の植物を使って染め物をしており、今日では目にすることが少なくなった桶作りが𥶡(たが)をはめている。鍛冶屋が燃え盛る炎の中から馬のひずめの鉄片を取り出し槌でカンカンと叩く。籠を編む人、木靴を削る人、轆轤(ろくろ)を回し器用にカップを形作るデモンストレーションをする人等々、来訪者は足を止められ、いつまでも見飽きることがない。










 どの店の職人さんも、自分の技術に誇りを持っている様子がよく伺われる。珍しい品を客が手にすると、材料は何か、それをどうやって作ったのか、どんなに苦労して一つを作り上げたのか、細々と説明してくれる。それがこのような市の楽しみであり、面白さでもある。客も「それでは一つ頂きましょう」と買い入れることになる。我々も、リンネルの布巾、しおり、アスパラの皮から作った紙のランプシェード、インディゴで染めた帽子等々を買い入れた。

 両親に連れて来られた子供たちも決して退屈することはない。広場では竹(木?)馬でバランス取り競争をし、染色の実習をし、お絵描きを楽しむことが出来る。










 これを書いている25日は亜麻市最終日、本来なら一番混雑する日なのだが朝からかなり激しく雨が降っている。この地方しばらく降らなかったので「良いお湿り」と喜ぶ人は多いだろうが、亜麻市にとっては残念なことで、盛り上がりの日に文字通り「水をさされる」ことになった。良く晴れた最初の日に行った我々は本当にラッキーだった。

2015年5月22日金曜日

日独青少年交流コンサート


 Essen市にある古い城 Schloß Borbeckで独日青少年交流コンサートが催された。これは1992年にDeutscher Musikrat(ドイツ音楽庁)とJML(Japan Music Life)の間で創設され、隔年毎に両国で開かれている青少年音楽家交流プログラムである。今年はドイツ各地においてこの時期に開催され、日本から5人の若い演奏家がやって来た。










 演奏したのは12歳から18歳までの若きピアニストとバイオリニスト4人であり、日本古来の楽器紹介として三味線演奏家(24歳)が含まれていた。ホストのドイツ側からはこれまた若い1316歳のピアニストとバイオリニストが出演、その技を競い合った。










 いずれも自国のコンクールで入賞した優秀な演奏家たちで、12歳の少女がバッハのパルティータを豊かな音質で奏で、14歳の少女がシベリウスのバイオリン協奏曲で聴衆を圧倒する…そのすばらしい出来に我々はまったく魅せられ息をのむ思いがした。ドイツ側は国際色を強調してか、中国系とトルコ系の演奏者を選んだが、いずれも国内のコンクールJugend Musiziertの入賞者ばかりで、これまた驚嘆すべき演奏技術の持ち主ばかりであった。









 
 日本側の引率者はJMLの主宰者入野禮子女史で、この方は有名な作曲家故入野義郎氏夫人である。日本側5人の宿舎として,妻の従姉妹が自宅の幾部屋かを提供したので、演奏会後皆で楽しく夕食会を持つことが出来た。その席で入野女史からはJMLの諸活動について、また演奏家たちからはその音楽訓練の厳しさ等親しく伺うことが出来た。










 この年齢にしてすでにこれほどまでの技術の域に達している若い演奏家たち、これから国内だけでなく国際的にもどれほどの成長を遂げて行くことだろう。我々音楽愛好家として大いに楽しみにしている。その意味でも今回のドイツ訪問は良い経験となったに違いない。Essen3回目、まだこの後諸都市での4回のコンサートが控えている。さらなる成功を心から祈っている。

2015年5月20日水曜日

5月の市場で


 「市(いち)が立つ」という言葉がある。市とは、「一定の場所と日だけに開かれ、商品販売が行われる公共の場所」である。だから常設の商店とは異なる。周知の通り日本ではそこから、四日市とか八日市という名前のついた町も生まれた。

 ドイツ国内でも日を決めて「立つ」市(マルクト)が沢山ある。私が訪ねたものの中には大聖堂の周囲のフライブルグ、ミュンスター、エアフルトの市、市庁舎前のローテンブルグ、ワイマールの市等があり、懐かしく思い出す。

 デュッセルドルフにも旧市街(アルトシュタット)のカールプラッツ(広場)にマルクトがあるが、これは私が1970年代に初めて訪れた時はすでに常設市場となっていた。面積は精々数十メートル四方だろう、その歴史は1950年代初めに遡る。この広場は元この地の貴族であるシュペー伯爵のもので、マルクトとして使用することを条件に市に寄贈したものだった。市当局はこれを受け昼間は市として、そして夜間は公共駐車場として解放することを決めた。

 








 
 その結果ここに店を開いた人は営業時間後自分の車(ワゴン)を商品共にライン河畔まで移動したのである。その当時周辺はすでに車の往来が激しく、渋滞や混雑は日常茶飯事で、朝晩の移動に大変な時間がかかった。幸い数年後すぐ横に駐車場が建設されたが、夜間はやはり広場を空けなければならず、ワゴンはその地下に駐車するようになった。これで時間が節約され、混乱も緩和されたが、商品運搬用エレベーターが故障したり、洪水時にワゴン搬出が出来なかったりで、営業ができない日もあった。

 







 
 駐車場が建設された後市当局はマルクトから手を引き、店主たちが自らGmbH(有限会社)を設立した。この頃からマルクトは広場からワゴンをまったく移動しない、日曜祭日を除き年中無休の「常設市場」となったのである。
 
 常設ではあってもそれは「青空市場」であることに変わりはなかった。天気の良い日は結構だが、一旦雨降りとなると足元の悪さから客足が遠のき売り上げもグッと減るのは当然。市全体を覆う屋根を作ることは店主たちの切なる念願であった。それが遂に実現したのは1998年のことであった。













 屋根設置のため必要となった日数はほぼ半年の170日、その間すべての店が市立劇場前で仮営業を行ったが、売り上げは半減ならまだしも78割減という店もあった。カールプラッツがいかに市民に馴染み深い広場であるかが良く分かる。

 古巣に返っても最初はあまり評判が良くなかった。「昔の風情がなくなった、客足も遠のいた」とメディアに叩かれた。出来上がった屋根も,当事者たちが計画していたものとかなり違い落胆も多かった。やっと元の状態に戻るのに1年以上の時間を要し2000年代に入っていた。

 今ある店の形態がまちまちで、私も含め訪れる客にとってこれが面白く思われる。野菜や果物のためには伝統的な屋台が圧倒的に多い。以前毎日のように移動を余儀なくされたワゴンは車付きで、常設となった今もそれは取り外されずそのまま使っている店(中にはパンクしたタイヤがついたまま!)も少なくない。しかし大きく変わったのは、精肉、鮮魚、乳製品等を販売する店で、冷蔵、冷凍設備が義務づけられたことから立派な構えの店が増えた。花屋も、朝晩花を遠く離れた冷蔵所から運ぶ労力を省くため冷蔵装置つきのものが出現した。店は一定面積内に収まれば形や色も自由に選べるので、ガラスを多く使った鮮やかでモダンなスタンドが多く出て、古いワゴンと並んでいるのはユーモラスな感じがする。

 5月の快晴のお昼時、買い物客も観光客も近所のオフィスからのサラリーマンたちも、同じ広場と並んである青空レストランで昼食を楽しみに出て来る。カールプラッツは、連日そんな人々が集まる旧市街の中心地なのである。

2015年5月14日木曜日

ユダヤ人墓地の見学


 58日はドイツナチが70年前の1945年に連合国に降伏した日であり、ヨーロッパ各地で終戦記念式典が行われた。その日ナチ収容所から解放され、今日もまだ生きている多くのユダヤ人の姿がTVに映し出された。ほとんどが90歳代の老人だが当時はハイティーンか20代初めの若者だったのだろう、幸運と体力に恵まれ今日まで生存した彼らの語る経験談は、過酷な運命を経験した人間の言葉として心に迫るものがあった。

 その数日後デュッセルドルフ北墓地で「ユダヤ人墓地見学」というイベントがあることを知り出かけた。10年ほど前長女のユダヤ系の青年との結婚により、我々もユダヤ人と無関係ではなくなった。二人の孫にはユダヤの血も流れている今、このようなイベントにも無関心ではいられない。

 参加人数は40—50人の市民でその中には独特な帽子をかぶったユダヤ系の人も何人か混じっていた。北墓地は当市の管理下にある墓地だが、1922年創設のユダヤ人墓地はその一角にある。西暦2世紀に故郷を奪われディアスポラ(離散)の民となって以来ユダヤ人たちは、世界各国に移り住むことを余儀なくされた。彼らの定住地で最初にやったことは、集会のためのシナゴーグ(会堂)よりも永眠のための場所である墓地を造ることであった、という。この市内にも最初数カ所あった墓地は,市の発展・拡張のため1922年現在の場所に一つにまとめられたものである。









 
 埋葬の葬儀式を行うホール(Trauerhalle)で先ず講演を聴く。この建物の入口部分は第2次大戦でユダヤ人が大量殺害された各地の収容所の名前を記した記念室となっている。その中には有名なポーランドのアウシュヴィッツやドイツのブーヘンヴァルト(ワイマール近郊で私も訪れた)の名もある。ホール正面の壁には「主が与え主が取り給う。主の名は誉むべきかな」の聖句がヘブライ語で書かれてある。











 講演後グループは2つに分けられ数々の墓の前でその歴史を学んだ。入り口左側にある、墓碑もほとんど読めないほどの古びた墓はBetty von Geldernのもの。彼女は詩人H.ハイネ(1856年歿)の祖母であり、18世紀末か19世紀初頭には死没しているはずであるから、1922年創設の当墓地にはどこかから移されたものだ。










 第1次大戦で戦死したErvin Plattの墓碑には、ユダヤ人の象徴であるダビデの星と共にドイツ軍の鉄十字が記されている。彼は故国ドイツのために身を捧げ戦死したユダヤ人であることを誇りに思い家族がそうしたのだろう。しかしその後ドイツの政治情勢はユダヤ人にとって緊迫したものとなる。1938119日にProgrom(反ユダヤ主義暴動)が全国的規模で起こり、当市でも多くの会堂や住居、商店が焼き払われ、殺害された人も出た。その内の一人で、Marienstr.(以前当市日本人クラブのあった通り)にカフェ・レストランをもっていたPaul Martensの墓を見る。彼はその夜ナチにより殺害され、重傷を負った妻は町を逃れた。

 ProgromKristalnacht(水晶の夜)とも呼ばれたが、これは破壊された建物のガラスが月光に美しく輝いていた、というナチの宣伝文句によるものであるので今日のドイツ人は使うのを避ける。Progrom時期にはユダヤ人の経済状態も悪化したらしく、墓碑も簡素で墓石もないものが多い。ナチの大規模なユダヤ人迫害はこの時が皮切りであり、それが後年のホロコースト(大量殺戮)へとつながって行く。

 墓地の入り口から右側半分にはま新しい墓石が目立つ。現在デュッセルドルフ在住のユダヤ人は7200人、その9割は旧ソ連邦から移って来た人で、60歳以上が4割を占める。 彼らは以前の無神論的環境の中で「隠れユダヤ人」として生活を送って来た。新区画の墓は2つの大戦時代のものと比べると(また今日の一般ドイツ人の墓と比べても)実に立派で高価な感じの造りであることに驚かされた。以前は墓の周囲には少しの緑を植えるだけだったのが、今では沢山の花を飾って華やかだ。墓碑には多くのキュリル文字(ロシア文字)も見られる。当墓地で最も有名なのは下左の写真のPaul Spiegel(2006年歿)の墓である。彼は6年間ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長を勤めた人でTVインタービューで良く見かけた顔だ。










 その時墓地内をパトロールする警官2人が目に止まり「やはり、ここもそうか!」と心が重くなる。ナチとホロコーストを恥じ、二度と再びそんな事態は起こすべきでない、と今日のドイツ人は決心している。しかし残念ながら、そのドイツでは少数ながら未だにネオナチを奉じる人間がいて、町のユダヤ会堂、養老院その他の施設には常に警官を配置しなければならない状態が続いているのだ。

2015年5月9日土曜日

日本を訪れる外国旅行者の群れ


 (56日東京発でFAZ(フランクフルターアルゲマイネ新聞)が「東京に押し寄せる中国人 − 旅行者の引きつけ役は円安」という記事を発表した。以下にその要約を載せる。)

 ゴールデンウィークに国内、海外旅行に出かけた日本人が東京を空っぽにした後,ドッと押し寄せたのは外国人観光客(特にアジア人の)であった。昨年日本を訪れた外国人は1,340万人で、それは前年比30%増であった。そして今年は1,500万人を目標としている。

 外国旅行者数は今年最初の3ヶ月ですでに410万人(前年比44%増)に達しているが、多い順に韓国、中国、タイとなっている。特に中国人の増加が著しく2倍の100万人にのぼった。因にドイツ人は36,500人(前年比21%増)に留まった。

 アジア人旅行者の増加から見ると、各国の政府間で喧しく取りざたされている戦争責任とか嫌日感情問題は窺えない。中国、韓国、日本は2020年までに相互の国の来訪者を倍加して3000万人に達することを共同の目標として立てている。

 日本への観光旅行者増加の原因は、一つにアジア人向けのビザ発給の簡略化であり、それに加え円安も引き金となっている。円安は日本における経済の緩和政策を打ち出したアベノミクスの結果である。現在日本円に対し人民元は39%、韓国ウォンは36%、米ドルは38%の有利を示し、ユーロのそれは17%に留まる。

 外国人旅行者には日本の8%の消費税が還元される。日本国内の消費を非活発化させ、日本経済を不景気におとしいれたものが、外国からの旅行者の購買力を高めたのである。昨年だけで外国人が日本に落とした金額は2300億円(145億ユーロ)であり、これは前年比43%の増加となっている。そしてこの傾向はさらに続くと見られるが、それは日本に大挙して押し寄せる中国人のお陰である。

(最後の段落は記事そのものを訳す)
 彼ら中国人が特に欲しがるものは有名ブランドの炊飯器であり、また暖房と洗浄装置付きのハイテク便座である。日本の観光協会が発表したところによれば、中国からの旅行者の落とす金が最高であり、一人当たりの平均消費額は30万円(約2,300ユーロ)にのぼるが、これは金持ち国アメリカ合衆国からの旅行者一人当たりの支出額169,000円(1,300ユーロ)をしのぐ額である。

2015年5月5日火曜日

温水洗浄便座の将来


 先月初めのDie Zeit(ドイツの週刊誌)の経済欄に「大きなビジネス。何が谷潤一を動かしたのか?」という全面記事が載った。谷はウオッシュレットで有名な日本企業Totoのチーフデザイナーである。

 1964年生まれの谷が初めて枠つきでその上に座る洋式トイレに出会ったのは1971年(7歳)であり、父の転勤で新しい家に移転し取り付けられた時であった。(私自身は1959年ビザ取得で行った横浜の米国総領事館で。その時は使い方が全く分からず戸惑った)。

 谷は大学卒業後Totoに入社、日本企業の例にもれず色々な部署に回された結果、キチン設備のデザインを希望したが空きはなく、やっとトイレ部門に入り込んだ。1980年代初期にTotoはすでに新しい便器の開発を進めており、43°の角度で温水が局部を洗うウオッシュレットが出現した。部署のボスには「君たちは常に将来のトイレを目指せ!」とハッパをかけられたという。それから10数年後にTotoは、蓋が自動的に開き、乾燥装置や水圧のコントロール、腰部のマッサージまで備えた便座を世に送り出している。

 デザイナーとしての谷の目を開いたのは,頭で考える日本式作業法ではなく,身体と心で感じるイタリア人の国で数年間経験を積んだ結果であった。その成果は、見た目にも美しいデザインで現在市場を支配する「ネオレスト」の製品群である。温水洗浄便器は外見がモダンになっただけではない、紫外線ライトが菌を殺し、便器の消毒が完璧となり、臭気を完全消滅させるようになった。それに加え便器が使用者の健康分析・測定をし、その結果を医師に直接報告出来る機能が備わっている等々、全くハイテク便座にまで発展した。この辺りのことをドイツのメディアも大きく取り上げる。

 







 
 Totoのヨーロッパ進出は2008年以来のこと、市場における現状では飛躍的な売り上げは達していない。雑誌等では器具・設置費を含め30004000€台かかる、と紹介されているのでおいそれと売れないのは無理もないだろう。これだけあれば立派なジャグジーつきバスタブがつけられる。Totoのヨーロッパ本社がデュッセルドルフのライン河港地区にあることを知って先日そこへ行ってみたが、週末のことでオフィスは閉まっていた。町のバスルーム専門店へ行けばなにか傾向が分かるかと出かけたが、生憎先客が多く店員にいろいろ質問することは出来なかった。

 







 
 それで勝手に30分ほどモデルルームを見て回ったところ、あることに気づいた。数十あるモデルの8割以上に便器と並んでビデ(局部洗浄器)がついているのだ。これで、ドイツでもこの種の洗浄器の需要が大きいことが判る。肝心のToto製のネオレストはどこにもないし、その他の温水洗浄便座がモデルルームに設置されている気配もない。ほとんど諦めかけて帰り際に顧客用トイレを使った時、その店の一番奥の一角にライトもついていない一室を見つけた。スイッチを入れて見ると、あった!

 Toto製ではないが,ドイツのDuravit社のSensoWashという温水洗浄便座だ。機能パネルにはほぼ基本的な、通常洗浄、振動洗浄、婦人用洗浄、温水量制御、温度・温風・乾燥装置,便座調整等のボタンがついている。この機種の需要状況や価格範囲について係員の詳しい説明は聞けなかったが、店の一番奥、それも電気もついていない一角においてあることから,大体の様子は類推できるというものだ。

 ドイツの一般市民には温水洗浄便座はまだ良く知られていない。町でのインタビューでも「そんなものがあるのか?!」と不思議な顔で応対するが、局部洗浄のビデに使い慣れた人なら、日本のウオッシュレトを一度使えばその快適さに驚くはずだ。しかし、上のような設置費用の額を言えば即座に「私には必要ありません」と断られるであろう。

 最近日本では10万円以下の便座が良く売れているという。爆買い中国人のおみやげの人気商品はこれだ、とテレビ番組が報道していた。この町でもそんな低価格のウオッシュレットを取り付けたという日本人家庭がある(どこの製品かは不明、後日何か判れば改めて書きたい)。健康・衛生志向の強いドイツ人にも温水便座の良さを正しく知らせ、せめて1000€内外の価格提示をするならもう少し普及するかもしれない。この辺りにウオッシュレットのヨーロッパ征服の突破口があるのではないだろうか。

2015年5月1日金曜日

「ういろう」と「みたらし団子」


 海外にいても手に入る材料を使い、なつかしい和風菓子を自分で作ってみようと、今までカステラやどら焼きに挑戦した。まあまあの出来だったので、さらに新しいものを探したところ「ういろう」と「みたらし団子」が見つかった。

 ういろうの材料はなんと小麦粉と砂糖のみ、それをぬるま湯で溶いて電子レンジで熱するだけである。他に入れるものはないかとレシピーをいろいろ繰ってみたところ,「抹茶ういろう」というのが見つかった(その他チョコ、黒糖,レモン汁入りも。透明のものには塩漬けの桜の花を飾りに入れる)。抹茶は缶入りがいくつかあり、我が家ではお茶を点てることも少ないので、この際ういろう用に使うことにした。小麦粉と砂糖を湯で溶いて小さじ一杯半の抹茶を入れたら良い色になった。

 







 
 さて電子レンジには耐熱容器を使うのだが、ういろうは竿もの菓子だから、なんとか羊羹(ようかん)の形にしたい。これは牛乳パックを使うことで解決出来た!空のパックの口を上にし生地を入れ横に寝かせ、口をテープでとめてレンジで600W78分熱すれば出来上がりだ。1リッターパックを使ったが、ういろうの容積は300ccなのでこぼれる心配はない。口をセロテープでとめて8分ほど熱した。もしもレンジの中で破裂し流れ出したら大変だと思い、用心のため所々にナイフの先で穴を開けた。

 出来上がった後冷ましてパックをはずしたものがこれ。けっこう良い色に出来上がったし香りも良い。裏は緑一色、表側に抹茶の溶けていないものが集まったが、妻はこの模様がむしろ面白いので、写真もその側を撮れと言った。

 次はみたらし団子だ。みたらしは漢字では御手洗(!)となるらしいが、これはその昔京都下鴨神社の御手洗祭りで売られていた団子に由来するそうだ。材料に米粉、だんご粉,白玉粉、小麦粉に片栗粉を混ぜたもの等を使え、といろいろ記されているが、今回は市販の上新粉を使った。絹豆腐を入れるとだんごが固くならない、とあったが、固くなるまで長くはおいておかないので、なしでやった。









 
 上新粉にぬるま湯を少しずつ加え耳たぶの固さにし、それを切って丸めて熱湯に入れる。底に沈んだものが浮いて来たらさらに2分ほど茹でて、水洗いしぬめりを取る。それを3個か4個串に刺し、たれをつければ出来上がりだ。たれは標準的に砂糖、醤油、みりんを混ぜたもの、とろりとさせるためには片栗粉も入れれば良い。

 真っ白でスベスベした団子も良いが、屋台で食べるようなみたらし団子にしたい思う向きには、すこし焦がした方が良いだろう。大抵のレシピーではフライパンで焼けとあるが、魚グリルやオーブントースターも使えるらしい。その際銀紙を敷けとか、ベーキングペーパーが良いとか読んだ。どれが最善かは、それぞれお試しあれ。私はフライパンにアルミフォイルを敷いて焦がしたが、望んだほどには美味しそうな焦げ目はつかなかった。

 タレをかけ我が家のみたらし団子はこんな風な出来上がりとなった。昔日のお祭り屋台を思い起させるような,郷愁の漂う団子となっただろうか?少し固めの仕上がりとなったが、団子を茹でた後もう一度元の大きい一本にまとめ、それを捏ねまた団子に丸めて,再度短時間茹でると柔らかくなるそうだ。次に試してみよう。