2014年11月23日日曜日

日本旅行2014(6)


 楽しかった日本旅行も終わりに近づきました。11月5日8時半には向島の民宿を出てフェリーで5分(100円)尾道駅前に着きました。半世紀前の高校時代毎週のように乗っていたこのフェリーは当時「向島渡し」と呼ばれていました。

 今回の旅行のためドイツで買って行ったJapan Rail Pass1週間有効)の最終日が5日です。帰国の飛行機ANAデュッセルドルフ直行便は7日午前11時半出発、6日午後遅くまでに東京に帰れば良いので、パスの使える5日はなるべく長い距離で新幹線を使い、6日は東京までの交通費を最小限に節約しようという計画を立てました。それでほぼ5時間かかるJR尾道−小田原を選びました。旅の最後は箱根観光に決めたからです。尾道駅みどりの窓口の係員は,こちらの希望通りてきぱきと乗り継ぎを決め一番早い列車予約を取ってくれました。レールパスの経済的なこと、そしてどこでもJR駅員・係員・車掌の応対サービスのすばらしいこと!これについては改めて書きたいと思います。

 小田原から箱根仙石までほぼ1時間のバスは終始ヒヤヒヤさせられました。運転手は慣れているのでしょうが、この「登山バス」つづら折りの山道をすごいスピードで走り下ります。反対車線は平日にかかわらず延々と続く車の渋滞でほとんど動いていません!「帰路は別の道にしよう」と即断しました。

 目的地のホテル「東急箱根ハーヴェスト甲子園」にたどり着いたのはもう辺りが暗くなり始めた頃、その晩は夕食と温泉でゆっくり過ごしました。翌日は早朝から活動開始、ホテルから徒歩でいける範囲に「湿生花園」と「ススキの仙石原」があるのです。


 「湿生花園」は川や湖沼の湿地に生育する植物200種中心の植物園です。その他にも草原、森林、高山植物1100種類が見られ、植物の趣味をもつ妻には正にパラダイスです。晩秋のこの季節はやはり、カエデ仲間の種々の紅葉したモミジ、カズラ、そして優雅な紫色のコムラサキ、リンドウを心行くまで楽しめました。

 植物園で1時間半ほど過ごした後、また小雨模様となったので急いで園前に停まっていたタクシーで仙石原へ向かいました。江戸時代初期までは千石という地名の村でしたが、それはこの地を開墾して米を作れば千石は穫れるだろうと人々が予想したからです。しかし火山灰土壌の上湿地帯であったこの地ではそれは夢に終わり、結局屋根を葺くカヤ(ススキ)を栽培し近辺に供給販売をすることになった、ということです。


 ススキは季節毎にその美しさを表しますが、晩秋の候には見事な黄金色となり、山全体が光る絨毯のようになります。この日は残念ながら太陽は顔を見せませんでしたが、風にそよぐススキの美しさは十分に堪能しました。小雨にもかかわらず観光客の群れは途切れることを知らず、温泉場も多い箱根はやはり日本で指折りの人気観光地であることを改めて認識しました。


 雨のため帰路のタクシーは出払って捕まらずホテルまで徒歩で230分,昼頃のシャトルバスに乗り強羅まで行き、そこからは登山電車で湯本,小田原を経由し、新幹線は自由席を買って節約、東京へは1時間足らずで着きました。最後の夜はまた以前泊まった銀座クレストンホテル、翌日(7日)成田経由でドイツへ帰ってきました。今回は今までにない、自分の脚を使って歩き、また走り回った実に健康的且つ活動的な日本旅行でした。

2014年11月18日火曜日

日本旅行2014(5)


 3 連休の最後の日113日は鉄道7時間半の大移動の日となりました。勝浦を「特急ワイドビュー南紀」で9時少し前に出発、名古屋まで3時間56分。そこで妹夫婦と別れ我々は新幹線の「ひかり」「さくら」を乗り継ぎ、新大阪−岡山−福山経由で最後はローカル線に乗り換え、東尾道に着いたのは1626分でした。これはドイツでインターネットを頼りに自分で立てた旅程で、1分の遅れもなくぴったり定刻に到着、実にいい気分でした。そこで出迎えてくれたのは高校時代の同級生R君、彼は尾道で大きな家具屋を営んでいる人です。彼には瀬戸内海の旅の計画から実行まで、ずっとお世話になりました。
              (因島重井「白滝山荘」での小同窓会)
 先ずR君のお店を見学しご家族にも会い、そして34日の宿舎である向島の民宿「B&B潮風」に荷物を置いてからすぐに因島に向かいました。そこは私の高校時代の懐かしい故郷の島なのです。この機会に島に住む同窓生23人に会って食事ができれば嬉しいな、とR君に伝えておいたのですが、着いてみて驚いた!我々夫婦を入れ総勢12人が集まり小同窓会となったのです。全員相変わらず元気そう!酒を酌み交わし新鮮な魚介類を食し、大いに盛り上がった会は数時間に及びました。しかし我々のためタクシーサービスに努めてくれたR君だけは好きな酒が一滴も飲めず、気の毒なことでした。
               (生口島と大三島を結ぶ「多々羅大橋」)
 翌4日は、妻がガイドブックから得た情報で、「しまなみ海道」サイクリングの一日となりました。この海の道は本州尾道を出発点とし、6つの島(向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島)を橋で結び四国の今治まで続く70kmの自動車(と自転車)道なのです。しかしほぼ半日しか時間の取れない我々にとって全行程はとても無理なこと、その内2つの橋を渡り3つの島を走ることにしました。
            (多々羅大橋で拍子木を叩き「鳴き龍」を共鳴させる)

 出発点はまたR君のタクシーサービスで着いた生口島のサンセットビーチ、ここからすぐに多々羅大橋を渡り大三島となります。自転車はレンタルですが、身の程をわきまえて電動アシストつきにしました。橋のアプローチ部分がかなり長い傾斜となる、と聞いていたからです。この海道第2の大橋は印象的でした。日本最長約1.5kmの斜張橋ということで、高所恐怖症気味のある妻は左側通行で海が眼下に見えると目眩がしそうになりフラフラして一寸心配しました。

                (熟れたミカンがたわわに実って)
 幸い雲一つない快晴の日で、青い海の面に太陽がキラキラ反射し、速い潮の流れが渦を巻き、無数の島が次々に現れ、熟れたミカン畑の黄金色が目にまぶしい!瀬戸内海の景色は正に天下一、外国人サイクリストが「日本一の最高コース」と折り紙付きで賞賛するのもむべなるかな、です。

 途中で出会うほとんどのサイクリストは、ツーリング用の本格的な自転車に乗っています。「今朝8時に愛媛県今治を出発しました」という若者は2時間ばかりでもうコースの半分ほどを走破していました。ほぼ平坦な道が続き、それに先を急ぐサイクリングでもなし、我々はゆっくり辺りの景色を楽しみながら走りました。
            (船が折れそうになる急潮流と渦巻きの「船折瀬戸」)
 塩で有名な伯方島で昼食、もちろん塩ラーメンと塩味ソフトクリーム、おみやげは塩入キャラメルと塩の花です。そして今日の最終目的地は、正規の自転車路をはずれ同島の西端にある「船折瀬戸」です。ここは潮の流れが速く航行する船が折れるほど、ということでこの名があります。丘の上から見たこの急流と辺りの景色のすばらしいことは、もう表現する言葉も見つかりません。
           (伯方島と大三島を結ぶ大三島橋を背景にした「船折瀬戸」)
 電動アシストのおかげで傾斜のある場所も、時折の向かい風もものともせず,夕刻には出発点に無事帰着しました。このようにして、この小サイクリングツアーは今回の日本旅行のハイライトの一つとなりました。その実現のために終始助力してくれたR君に心からお礼を言いたいと思います。

2014年11月16日日曜日

日本旅行2014(4)


 102日は早朝に起床し急いで朝食をすませ、8時前にはホテルを出発しました。その日は熊野古道を歩く計画だったので、南紀勝浦に午前中の内に着きたかったのです。JRの電車は乗り換えも含め約3時間で勝浦駅に着きましたが、また小雨が降り始めていました。

 駅でスーツケース等手荷物すべてを預け身軽になりました。いや、預けるだけでなくその晩泊まるホテルまで配達する手配もしました。これは前の日もやったことで、手荷物なしで身軽に観光するにもってこいのサービスです。ヨーロッパのどの駅でも、荷物預かり所かロッカーはあっても、ホテルまで届けてくれるこのようなサービスをするところはどこにもありません。


 この日の行程は勝浦駅からタクシーで数分の所にある大門坂から出発し、1.3km続く石の階段をひたすら登り那智の滝に達するコースです。ここは有名な熊野三山を目指すいくつかの巡礼道の一つなのです。まだ時折小雨が降って濡れている石段は、ともすればすべって転びそうになり、私たちは一歩一歩こわごわ歩きました。こんな所で足でもくじいて動けなくなったらもうお手上げですから。昼尚暗い途中の杉林の登り坂には歴史の跡がしみ込んでいるようでした。今から1000年以上も前に白川上皇が巡礼の旅を始めた後、京都の貴族も沢山それに倣って熊野詣でをしたということです。そんなことを真似してか、貸衣装でお公家さんの恰好をして石段を登る若者たちを2組ほど見かけました。それが史実に基づいたことなのかどうかは詳らかにしませんが、私にはどうもコスプレ趣味のお遊びのようにしか思えませんでした。


 このコースの最終点、そして最高峰は那智の滝です。幅13m滝壺までの落差133mの日本一を誇るこの滝は、数日前から降り続いた雨のためさらに水量を増やし、ごうごうと音を立てて落ちている様子は壮観でした。巡礼街道である熊野古道は那智の滝を合わせ2004年にユネスコ世界遺産に指定されましたが、道が世界遺産に指定されたのは世界中でここと、やはり巡礼の道をもつスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラの2カ所だけだということです。数日後この二つの世界遺産を比較し,報道するTVの旅番組をやっていましたが、日本滞在中に幸運にもそんな番組を見ることが出来たのは、両者ともに訪れる機会があった私には特に興味深く感じられました。


 その晩は勝浦港に面したホテルに一泊しました。南紀はやはり潮の香りのプンプンする漁師の世界です。ホテルの夕食時にはマグロの解体ショーもあり、豪快に切り分けたマグロをいやというほど食べました。私の母方の祖父(明治18年=1885年生まれ)は勝浦よりさらに南の串本の網元の出であると聞いていました。そんな話にだけは何度も聞いていた祖父の出身地、南紀州の海の地を今回訪れることが出来たのは本当に幸いでした。


2014年11月13日木曜日

日本旅行2014(3)


 中山道のハイキングを終えた1031日の夜は名古屋に一泊しました。111日からの3連休は妹夫妻と共に伊勢志摩から南紀への旅です。夕方から降り出した雨は夜になってますます強さを増していました。

 駅前のホテルで合流し、ふくらはぎの痛さに悲鳴を上げながら駅ビルでの夕食に出かけた時も激しい雨。目指す名古屋名物の「ひつまぶし」は店先の長蛇の列を見てあきらめ、もう一つの名古屋名物「きしめん」にしました。


 翌朝も相変わらずの強い雨、JR伊勢市駅に着いてすぐ伊勢神宮内宮に向かいました。予想はしていたけれど、雨をものともせず繰り出したお伊勢参りの人の大群!場所柄をわきまえてか黒っぽい正装に近い服装の人が多く見られました。ズックにジーンズ、アノラック、リュックの我々は気が引けることしきり。2013年に遍宮を終えたばかりで木肌も新しい鳥居をくぐり、五十鈴川にかかる宇治橋をわたりお手洗場を経て30分も雨中を歩くと、そこはもう内宮・御正宮です。内宮の中でも最も神聖な場所のここではすべて写真撮影が禁止です。その上おみくじ、お守りを売る場所まで写真禁止されているのはなぜでしょう?

「お手水の作法」(左手から始め右手へ、そして口すすぎ等の)も「二拝、二拍手、一拝」の礼拝規定も守らず、おざなりの参拝をすませた不信心な旅行者は、「おはらい町」とその中にある「おかげ横町」での食事と買い物が待ち遠しい思いでした。前の晩食べ損なった「ひつまぶし」にもここでやっとありつけ大満足。しかしあまりのボリュームに名物「赤福」を食べる余地がなくなったことは残念でした。ここのショッピングストリートは浅草の仲見世、飛騨高山の壱之町通りにも匹敵する通りで、売られている商品はどれも魅力あるものばかりでした。ここまでで朝から数時間、雨水を吸ったリュックの中の文庫本までグショグショになっていました。


「伊勢志摩へ行ったら真珠を買おう!」と、妻に半分約束半分冗談で言っていましたが、旅行中に誕生日(1028日)を迎えた彼女のため、やっぱり一肌脱ごうという気になり、タクシー運転手さんの案内である店に寄りました。まあ沢山の種類があるわあるわ、30分以上探した後やっと奥さんの気に入った、小粒で色んな色合いの珠を使ったネックレスが見つかり買うことが出来ました。旦那には値段が割合安かったこと(妻が気を使ったか?)が大変気に入りました!


その晩は志摩の海に面したホテルに宿泊、雨は少し小降りになったようですがまだまだ青空は望めません。旅はここからさらに南紀勝浦へと続き、熊野古道を歩くことが計画表に載っています。

2014年11月10日月曜日

日本旅行2014(2)


 1030日朝、東京を新幹線で出発し名古屋まで。そこから中央本線の特急で中津川まで行ってローカルバスに乗り換え着いた先は馬籠(岐阜県)です。待ち時間を入れ数時間かかった旅でした。なぜこんな場所を選んだのか…?

 「中山道:江戸時代に江戸−京都間を結んだ主要五街道の一つ。木曽谷の森の中をぬうクネクネした山道が多い。その中でも良く修復・整備された馬籠から妻籠にいたる7.8kmのルートを歩くのは、日本旅行の最も印象的な経験となるだろう」。こんな一節を妻がガイドブックで読んで、ぜひ行ってみたいと言い出した結果、今回の旅行計画に入れたのです。


 馬籠はこのルートの最南端の村です。バス停から予約しておいた民宿「馬籠茶屋」まで約100m、ものすごい傾斜の坂道をスーツケースを引っぱり歩くのに汗びっしょり。ここは全長600mの傾斜のきつい石畳道(自然遊歩道)の両側に数十軒の民家や店が並ぶ村で、島崎藤村の生まれ故郷として知られています。昼間は大勢の観光客で賑わいますが,夕方からは店も閉まり、人通りもぱったり途絶えます。宿に荷物を置いて早速村周辺の散策をしましたが、恵那山(約2000m)を背景にした秋の木曽の風景は思わず息をのむ絶景でした。

 翌日は早速ハイキングに出かけることにしましたが、歩くことに強い妻は朝早く徒歩で出発し上りのコースを歩き、脚に自信のない私は後からバスで追いかけ中間点の馬籠峠で落ち合い、妻籠までの易しい下りのコースを一緒に歩くという、出発前にたてた計画は実行不可能だと判りました。秋季にはバスの運行が減らされ、午前中は11時近くまで一本もないのです。それまで待つのは時間の無駄なので、結局峠まで二人でタクシーを使い下りを一緒に歩こう、と決めました。

 次に出た問題はタクシーの確保です。通りを流している車は勿論なし、電話するにも番号は分からずはたと困りました。ところがなんという幸運か、もう一軒の民宿の前に一台のタクシーが停まっているではありませんか!運転手さんに訊いてみると、それは前日から予約したタクシーで「お客さんは外人さん、今出て来るから峠までなら便乗させてもらえるでしょう。英語で交渉してみてください」と。それも即刻快諾され,数分後我々夫婦は標高801mの馬籠峠に立つことが出来ました。その上、その中年の夫婦は南ドイツから来た人であることが判り、車中ではドイツ語で話に花が咲きました!


 「木曽路はすべて山の中である」とは島崎藤村の「夜明け前」の冒頭の句ですが、実にその通りで、午前9時から数時間歩いた道は終始山の中でした。紅葉を始めた森を通りしばらく歩くともう長野県に入っており、「無料休憩所」と看板の出ている建物に着きました。そこでは72歳になるホストが、淹れたてのお茶とお茶受けの漬け物、そして本場の「木曽節」で歓待してくれました。途中妻籠側から登って来る人にはまったく出会いませんでした。時には熊が出るとのこと、熊よけの鐘が所々に吊ってありました。


 やっとお昼前に森を抜け視界が開け、妻籠の村が見えてきました。先を急がず妻がいろいろな木の種類を調べながらゆっくり歩いたからです。妻籠村は江戸時代の宿場の様子を最もよく維持している所と高い評価を受けています。何度も火災に遇い再築された馬籠に比べ、500mほど続く妻籠の家並みは統一感があり、江戸時代に引き戻された気持になります。


 40年ほど前には廃村になる瀬戸際だった妻籠も馬籠も,古き良き江戸の時代を記念するべき場所として、いつまでも大切に保存されて欲しいものだと、心から願ったことでした。

2014年11月9日日曜日

日本旅行2014(1)


 ほぼ2週間にわたった今年の日本旅行も無事終わりました。その印象等をこれから数回にわたって報告したいと思います。

 最初の数日間は東京とその近辺の観光でした。先ず、妹夫婦の推薦してくれたホテル「銀座クレストン」は有名な聖路加病院のすぐ前にあり、今まで東京で泊まったホテルの中でも最高で特筆に値する宿でした。最近のホテルの部屋やサービスはどこも似たり寄ったりですが、36階の部屋に入った時、そこから見える景色の素晴らしさに思わず感嘆の声をあげました。真下に隅田川が流れ、正面に東京タワーを初め数々の高層ビルが建ち並び、晴れた日には富士山まで見ることが出来るのです。また夜景がすばらしい!タワーはライトアップされ、ビルの照明がダイヤをちりばめたようにキラキラ光り、隅田川を上り下りする屋形船が水面に映る様は夢のようでした。


 ホテルは築地市場の近くでもあり、その後方には浜離宮の緑も望めます。早速徒歩で市場の前を通り浜離宮まで足を延ばしました。浜離宮は名前だけは聞いていましたが訪れるのは今回が初めて。江戸時代徳川家の庭園であったものが後日下賜されて今では東京都の都立公園となっています。中でも大手門(庭園の入り口)近くにある三百年松と呼ばれる巨大黒松や、中島のお茶屋は一見に値するものです。お茶屋では疲れた足を休めながら抹茶を飲むことができます。それにしてもこの庭園、どこでカメラのシャッターを切っても背景に高層ビルが入ります!タイムスリップで徳川の将軍様が今の離宮に来られたら、きっと腰を抜かすほど驚かれることでしょう。



 場外市場の通りは相変わらずの賑やかさで、お上りさんたちが夢中になってショッピングです。私たちも鰹節専門店の「松村」で2本ほど買い入れました(デパートの半額の安さ!)。この店は薄削り、厚削り、粉削りした削り節の専門店ですが、うちで市販の袋入り「花鰹」を使わなくなってもう何年にもなります。我が家では鰹節の鉋を使い、料理の都度新鮮なものを用意しています。松村では親切なおじさんがいろいろアドバイスしてくれて大いに参考になりました。


 お昼時になれば場外市場の客呼び込みが活発となります。私たちは前もってインターネットで調べておいた「つきじかんの」に入り、築地直通で、もうこれ以上は望めないほどの新鮮な魚類(エビ、カニ、ウニ、イクラ等)の「海鮮丼」を心行くまで楽しみました。

 その日の午後はさらに銀座や表参道までショッピングに出かけ、へとへとになるまで歩きました。万歩計をセットするのを忘れましたが、恐らく1万歩ははるかに超えていたでしょう。旅の最初からあまりに飛ばしすぎるのは考えものですが…。これからまだまだ続く旅、さてどうなることでしょう?