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2015年8月26日水曜日

オルガンコンサート


 週末オルガンコンサートに出かけた。と言っても演奏会場は教会とかコンサートホールではない。普通の家族の住む家で、楽器は電気オルガンでも脚踏みオルガンでもない、れっきとしたパイプオルガンだ。













 その家の子息がニューヨークのある家庭でそんなオルガンを見たのがそもそもの発端だった。「これぐらいのものは我が家でも出来るのでは…?」と彼は考えたのだそうだ。ドイツには,規模の大小はあるものの、ほぼどの教会にもパイプオルガンが備わっており、それの建造と修理・補修をする専門会社は170ほどあるので、適当な一社を見つけるのをさして困難なことではなかった。

 この規模のオルガンでも建造に3年を費やしたという。普通の住宅と言ったが,オルガンを備え付けるには居間の片隅では無理で、それだけの特別な構造が必要であることは言うまでもない。幸いこの家は3階建てで、玄関を入るとかなりのスペースがあり、最上階まで吹き抜けとなっている。3階まで両側にグルグルと階段が続き各階に踊り場があり、オルガンは2階と3階の間の踊り場に据え付けられた。









 
 幸い我々の隣に座った人がこのオルガンの建造者だったので,これ幸いといろいろ質問した。パイプの総数は338本、鍵盤は一段、ストップ(音栓)は左右それぞれ10個ついている。木材は大部分がドイツトウヒで、鍵盤だけは北ドイツ産の高級ツゲ材を使っている。正面は30数本のパイプで飾られているが,大部分は本体の中に入っている。その様子もわざわざ鍵を開けて見せてもらえた。


 










 
 さて肝心のコンサートで演奏された曲だが、バッハのパッサカリア等はやはり音のスケールが十分ではなく、教会の大オルガンで響き渡るのを聴くのとは感じが違うことは否めない。当日は独奏だけでなくバリトン歌手も招かれ,オルガン伴奏で何曲か歌った。オラトリオのソロ曲はまあ大して違和感はなかったが、モーツアルトの歌劇ドンジョヴァンニからアリア「カタログの歌」となると一寸首をかしげた。そしてシューベルトのリート「水車屋の娘」や「セレナーデ」と進むと、めったに聴けない珍しい組み合わせではあるが、やはりオルガン伴奏ではいただけないな、と言わざるを得ない。










 さて今後このオルガンはどう使われるのか,人ごとながら心配になった。この家は数ヶ月に一度はハウスコンサートを開き愛好者を招待するのだが(註:2014327日のブログ),室内楽が主なプログラムとなるので、将来いつもオルガン曲ばかりを選ぶことは出来ないだろう。このプロジェクトの「言い出し兵衛」の子息は責任を感じるのか、これからオルガンのレッスンを受け練習に励みたい、と言っていた。

2015年8月23日日曜日

ブルーストライプのシャツ


 この10数年間,冠婚葬祭の時を除き正式の黒っぽいスーツを着たことがない。その必要が全くなくなったからだ。白一色のドレスシャツも数枚残っているが、長く着ないので色褪せて来ているし、その後太ったのでサイズもぴったりではない。

 しかしコンサートや観劇、食事の招待等の時にはチャンとしたジャケットくらいは着て行きたい。そのためにはそれに合うシャツも欲しい。私はきれいな色物のシャツが沢山かかっている町の専門店のショーウインドーをよく覗くが、特に細かいストライプのシャツに惹かれ目が行く。どれも高価で100ユーロ以上の正札がついているし、試着の結果は知れているので店に足を踏み入れることはない。「胸囲は合いますが袖の長さが…。服飾店の少年用シャツ売り場なら見つかるかも知れませんよ」と屈辱的なことを言われるのがオチだ。













 何年か以前、日本で数着買って帰ったシャツも同じことで、まだ自分で縫い物をやっていなかった頃のこと、こちらの直し屋に出したら日本円で1万円ほどになった。それに袖の直しではカフスはそのまま、短冊のところを切り取って短くするので腕まくりができなくなったのだ。

 適当なものが見つからない、買えないなら自分で縫ってやろうと考えた。しかしこの手の生地は高いだろう、恐らくメートル30€以上はするだろう、と覚悟していた。ところがある時デパートの特価で驚くなかれ3ユーロ/mというのを見つけた。2メートル買っても6€だ!生地の質はともかくきれいなブルーのストライプなので飛びついた。










 1週間余の作業の結果縫い上げたのがこれだ。カジュアルなスポーツシャツではなく一応ドレスシャツなので、今回は細かい所まで念入りに手を入れた。そのために、ふつうマチ針でとめるだけで縫う箇所にも、先ずしっかり動かないように糊付けをした。それには例のボンド「裁ほう上手」が大いに役立った。生地は安かったが、必要な11mmのボタン12個は10€ほどかかった。

 夏の終わりでまだ暑い時はこのままジーンズと着ても良い。ジャケットを羽織れば一寸フォーマルな感じになり、そしてネクタイを結べばこれでどこへも出かけられる。早速今晩のコンサートにはネクタイ着用で出かけよう、と思っている。

2015年8月20日木曜日

G−ペンとは?


 「Gペンを使うと英語の筆記体がきれいに書けるよ」と小学生の私に教えてくれたのは明治18年(1885年)生まれで元税関署長をしており英語が達者な祖父だった。明治生まれの人間が知っていた、そして使っていたGペンなるものは、いったい何時頃から日本に入って来たのだろうか?そして何故Gペンと呼ばれるようになったのだろう?

 そんな疑問をもっていろいろ調べた結果、現在日本各社のペンの製品にそのまま残っているGの文字について、ペンの製品がA-Zまでありその内残ったのがGだけだったとか、昔日本に輸入されたこのタイプのペンにGの記号がついていたとか、そんな説明を見つけた。しかしそのどれもはっきりした回答を与えてくれるものではなかった。

 日本のGペンメーカーはこれを「漫画用ペン(コミックペン)」として生産・販売していることを知って驚いた。宣伝文句は「弾力があり柔らかいため、筆圧により強弱のある線が描けるペンである」というものだ。「書ける」ではなく「描ける」となっていることに注意願いたい。さらに「力をセーブせず太い線、細い線を容易に表現でき、漫画初心者にも扱い易い」とあり、「少年ジャンプ」のため、下絵から細かい所の仕上げまでを描いている作者の動画がインターネットに載っていた。

 一方アメリカのYou Tubeではこの同じ日本製Gペンを優れたカリグラフィー(特にCopperplateSpencerian字体)用ペンとして高く評価している。私もそこで初めてゼブラとかニッコーのGペンのことを知ったのだ。それで日本からすぐに送ってもらって試してみたが(私の場合勿論横文字書きだけだが)、これまでこちらで使っていたpoint penとは比べものにならないほどの書き易さと仕上がりの良さに感激した。日本ではカリグラフィー用Gペンとしては売れずビジネスにならないので、ブームになっている漫画用として宣伝・販売するのだろう。

 ペンというものは筆圧を加えれば強く太い線が、力を抜けば細い線が書ける。これまでのペンでも下降方向で力を入れれば太くはなるが、上昇方向の細い線がきれいに書けなかった。日本製のGペンではいわゆるhair line(毛髪の線)という0.3ミリ以下のきれいな線が書けるのだ。それに加え、インキも万年筆用黒インキより“sumi ink“の黒がすばらしいので使うように、とアメリカ人は薦める!良く見ると瓶入りの墨汁を使っている。それで私も「呉竹、墨のかおり」というのをこちらで見つけ水で薄めて使っているが、確かに艶のある美しい黒の文字が書ける。

 しかしつけペンは消耗品である。通常のGペンでは漫画原稿34枚が精々だという。それを改善するため出来たのが、ワンランク上のプロ仕様のゼブラ社「チタンGペンプロ(金色コーティング)」で、これで10枚以上描けるようになった、という。それだけに値段も通常の3倍の102500円する。私はこれとニッコー社の「超研磨Gペン」を合わせ使っているが、まだ数週間のことで正確な寿命比較はできていない。

 練習のため連日横文字を書くのだが、手当たり次第ではなく何かまとまったものをと思いラテン語聖書の「ヨハネによる福音書」を選んだ。筆写はまだ13章大学ノート50ページほどだが、書いている間の気持の落ち着くことに満足している。昔の仏教僧のお経や、中世修道士の古文書筆写の時もこんな気持になっていたのだろう、と想像している。

 Gペンを使って書く練習の例はYou Tube から豊富に得られ、どれもすごく参考になる。ただし「名人」たちが書く「飾り文字」(flourished letters)だけは真似てみても、今の所とても追いつけるものではない。この段階に達するには何年も、否何十年もの練習が必要だろう。

2015年8月14日金曜日

橋を渡って行こう!


 今年は2番目の孫のMarleneマレーネがGymnasium(ギムナジウム=大学準備8年の中・高総校)に入り、その入学式に参列した。この学校は2歳上の長女Hannahハンナも通うBielefeldRatsgymnasiumで、母親(=私の娘)が7年間英語教師を務めている学校である。










 入学式は午前8時に旧市街Nicolas教会での礼拝で始まった。同校の宗教担任の神父の司式で始まり、多くの上級生も壇上に上り新入生のため歓迎と激励の言葉を述べた。今年のテーマは「橋を渡って行こう」というもの。今までいた古いこちら側の領域を去り新しい未知の側に渡るため、架けられた橋を渡るのが今日の入学の日である。橋を架けてくれた先人・先輩たちに感謝しつつ、希望を持って渡り新しい出発をしよう、そして後日自分も他の人のため橋を架けなければならない、というのがメッセージの主旨であった。










 その後会場を学校の講堂に移し、校長の歓迎の辞と上級生による音楽プログラム、そしてクラス分けと担任の紹介があり、新入生はそれぞれのクラスに移動した。日本の入学式とは異なり、市のお偉方の祝辞等は一切なく、終始笑いと拍手の続く楽しい1時間ほどであった。今年の生徒は市内外33の基幹学校(小学校)から119名が入学を許され、4つのクラスに分けられた。そこで初めてクラス担任の先生の指導で1時間余りのお互いを知り合うプログラムがもたれた、ということである。これには保護者の参観は許されないので、後で聞いた話である。

 今日の最初の授業が終わる12時過ぎまで、保護者は町の中を散策して時間をつぶすしかない。人口30万そこそこのBielefeldは典型的な地方中都市、かつては繊維製品で発展した町であるので、市内各所に色とりどりの市のシンボルであるLeinenweber(亜麻布=リンネル織工)の像が見られる。気温は25℃内外で散歩には快適、新入生が部屋から出て来る時間までゆっくり買い物等して過ごした。













 この学年ともなると小学生のランドセルとはお別れで、かなり大型のリュクサックで登校となる。持たせてもらうとズシリと重い!これを肩に明日から新しいパス(定期)を使ってのバス通学が始まる。娘一家のの住むDornberg地区から市内までは約20分かかる。7時頃のバス通学は今の季節は良いが,冬場になれば厳しい寒さと真っ暗な闇のうちに家を出ることになる。でもへこたれることなく、マレーネ元気に頑張れ!と声援を送りたい。

2015年8月7日金曜日

電動アシスト自転車を買った!


 昨年の秋瀬戸内海の「島なみ海道」でサイクリングを楽しんだ。その際部分的には勾配のきつい所もある、と聞いていたので電動アシスト自転車を手配してもらった。借りたのは古くさい形のママチャリに簡単なバッテリーがついたもので、出発前に係の人から「電気の消耗が早いという苦情をよく受けるので,気をつけて下さい」と注意を受けた。それで平地ではなるべく使わず恐る恐る半日乗ったが、幸い途中でエネルギー欠とはならず無事帰着した。

 それに味をしめた妻は帰国後すぐに新しい電動アシストバイクを購入した。ドイツではまだ高価で専門店で見るものはすべて2000€内外だったので、私は買うのを控えていた。それから半年して値段もかなり安いものが出るようになり、1000€を切るものが目につくようになったので私も数日前決心して買うことにした。スピードメータや走行距離表示はついていないが価格は800€そこそこだった。









 
 今週から2週間夏の休みを取っている妻共々、この辺りのサイクリングを楽しんでいる。数週間前の殺人的猛暑は去り、連日20℃内外の快晴が続いている今の季節ライン河畔を走るのは、この上なく楽しく健康的なスポーツである。「慣らし運転」を数時間やった後はギアとアシストの組み合わせも判り、無駄な電気も消費せずペダルを踏む体力消費の点も含め経済的に走れるようになった。それに二つ目の代替用充電バッテリーもついており、携行バッグのなかに交換用を一つ入れて走ると途中での完全消耗の心配なく心理的にも安心して走れる。

 市内からかなり離れたこの辺りにはサイクリング用の道がよく備わっており、半日一日のコース地図も市販されているので、日によって行き先を決めるのは簡単である。これまで,往復20キロほどのコースを2つ走ってみた。その一つは郊外のAngermund城へのリンゴ園と小麦畑を通る田舎道のコースだった。夏麦の収穫が終わった畑が多く、コンバインで刈り取り・脱穀・選別されたあと、残された麦藁が丸くきれいにまとめられているのは,毎年の夏の見事な光景である。
 
 リンゴの樹が片側に何本も続く道路は初めて見るもので珍しかった。このような所はドイツ語でStreuobstwiese(独語版Wikipediaに出ている)と呼ばれるが、日本語に訳すのは難しい(日本語版には単に「果樹園」となっている)。しかし、ここにはObst(果物)の語が入っている通り、リンゴに限らずサクランボ、栗、プラム等が雑多に育つ園や並木道を指す。一定の農家が所有するのではなく、村民(市民)が自由に育成栽培と収穫する入会権のあるような場所・土地と考えれば良いだろう。だからサイクリングや散策の人が勝手に採って食べても咎められることはない。









 
 雨天の一日おいて次に走ったのはライン河の左岸Meerbuschで、長いFlughafen Brücke(空港橋)を渡り河畔をそよ風に吹かれながら走るには絶好の天気だった。この辺りには馬を放し飼いにする野原が多い。馬を飼って乗馬を教える訓練所も多く見られる。この日のハイライトは帰路右岸のKaiserswerthまで数分かかるフェリーに乗ったことだ。これはキルメス期間中一度に数百人の人を運んでいたフェリーが本来の仕事に戻って来たのだ。この日正午少し前の時間帯だったが、230人の乗客があり乗用車も数台乗っていた。






 電動アシストつき自転車を数日使ってみて、自分でも驚くほど行動範囲、走行距離が伸びたことに気づいた。征服出来る距離に比べ身体の疲労度はわずかで、快適な心地好さが残るのみだ。厳寒の真冬は敬遠しなければならないだろうが、これからの数ヶ月間、季節毎に変わるこの辺りの風景を楽しみつつサイクリングをする楽しみが増えた。

2015年8月3日月曜日

孫たちのカナダ帰国


 1年のsabatical year(大学教員の7年毎の休暇で、通常半年か1年与えられる)をHamburgで終え、長女の家族がカナダへ帰って行きました。彼女も夫も共に心理学、心理療法学の専門家なので、二人一緒に同じ時期に同じ大学病院で働けたことは幸いでした。

 二人の子供たちもすっかりドイツの学校・幼稚園生活に慣れ、沢山出来た友達と別れるのがとても辛かったようです。二人ともカナダでも家庭内で母親のドイツ語を聞いていたので理解はできましたが、友達と話すことは初め少し戸惑っていました。それが1年の間にまったくドイツ人の子供のように話すようになり、こちらが英語で話しかけても返事はすべてドイツ語になりました!今年初めアメリカからはるばる会いにやってきたおばあちゃんに対しても同じことで、彼女は驚いたり落胆したりしたそうです。









 
 幼稚園児Joelの最大の問題は、全国的に何ヶ月も続いた幼稚園教師のストでした。その間彼はBielefeldDuisburgの親類に預けられ、我々は数日Hamburgの家に出かけ面倒を見ました。6月初め我々が行った週にやっとストが解除となり、今度は幼稚園への送り迎えをすることとなりました。

 小学校2年生のJuneはドイツの学校への驚くべき順応能力を発揮し、すべての分野においていい成績を収めました。学年最後の通信簿なるものが送られてきました。学校の先生の方も、英語やフランス語だけの学校から来た子がクラスのお荷物になるのでは、と心配されたようですが、それも杞憂に終わりました。ドイツ語での授業は読み書きまったく問題なく、その上体育、音楽でも良く出来ました。他の生徒との交流も模範的で、学年の英語劇ではリーダーとなり皆を指導しました。母親は「1年でお別れとなる子の送別プレゼントに良い通信簿を書いてくれたのでしょう」と言っていましたが、やっぱり喜びは隠し切れず親類一同にEメールでその通信簿を送ってきました。

 一家はドイツ最後の2日間デュッセルドルフの我々の家で過ごしてくれました。最後の日はBielefeld3人の従姉妹たちも来て最後のお遊びとアパートのプールでの数時間を共に過ごしました。午後6時半のICEFrankfurt空港に向かい、途中アイスランドに立ち寄り、すでにカナダ、エドモントンに着いているはずです。

 来年の夏休みにはBielefeld一家がカナダを訪問し、カナディアンロッキー国立公園を初め方々を車で旅行する計画を立てています。我々も全行程は無理としても出来れば途中のどこかで落ち合おうか、と今から楽しみにしています。