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2013年10月30日水曜日

日本旅行(1)鴨川シーワールド


 1020日、ロンドン経由午前9時に成田空港に到着した時、かなり激しい雨が降っていた。台風26号に続き27号も接近していたためで、10月に入っての台風の連続襲来は珍しいとのこと、不運とあきらめるしかない。空港駅から千葉駅を通り、外房のほぼ先端の町鴨川が第一日目の目的地だ。直接首都東京に入る前に、どこか房総半島の町を訪ねてみようという意図から計画したのだった。

 雨は途中ますます激しく音を立てて降り始めた。JR千葉で勝浦行きに乗り換えてしばらくすると、「豪雨のため、この列車は茂原で運転休止とさせていただきます」というアナウンス。おいおい、冗談じゃないよ!と抗議しようにも天候では相手が悪い。仕方なく茂原−鴨川間はタクシー2台を1時間半も走らせる羽目になった。我々一行は子供3人を含め計7名なのだ。幸い、房総半島の山間部と海岸沿いを走るドライブは、それなりに楽しめるものだった。

 鴨川シーワールドホテル着は3時頃、こんな荒れた日には客も少ないだろう、とふんでいた予想は見事はずれた。日曜日のこともあり満員盛況なのだ。電車は全面運休なのにみんなどうやってここまで来たのだろう?早速チェックインした部屋は10畳ほどの日本間、ドイツ人の娘婿や孫たちにはまったくの初体験だ(特に畳の上の布団は)。それよりも彼が感嘆したのは、窓から見える房総半島の岸に押し寄せ砕け散る波の雄大さだった「こんな素晴らしい景色の部屋を予約してくれて!」と、しきりに感謝された。でも、ここは全室海に面しているのだ!


 なぜ「シーワールド」を選んだのか、インターネットで偶然見つけたのか、そのきっかけは忘れてしまった。しかし、それは全く正解であった、と思う。このようにスケールの大きい、そして楽しいプログラムを備えた施設は世界でも少ないだろう。メインは、数千人の観客を一堂に集め、イルカ、シャチ、アシカ、ベルーガのパーフォーマンスを、それぞれ30分ずつ午前も午後も見せるプログラムだ(その他水族館の水槽の魚も美しくバラエティに富んでいる)。それぞれの演技を見て、順に「エレガンス」「ダイナミック」「愛らしさ」「幻想」という言葉が浮かんだ。手に汗握り、笑いを誘い、感嘆の声を上げ、夢心地にさせられる数時間は、日頃の苦労もうさも忘れさせてくれる。こんな大型のそして数多くの海の動物を、人間のパートナーとしてよくここまで慣らしたものだ、と感心させられる。何年もかけて日々の訓練のたまものとしか思えない。その間には死んだ動物もいただろう、そしてまた新しい演技者(?)も加えられただろう。観客が去った休み時間には、トレーナーが付きっきりでシャチ(新人?)のトレーニングを続けていた。


 そんな楽しさの合間にふと考えた。太平洋沿岸にそって、あの福島第一原発から房総半島のここまでは精々350キロの距離である。汚染された海水はこの辺りまで流れてくるのだろうか、シーワールドの海洋動物や魚類には影響ないのだろうか。それともその辺りの対策はすでに十分にとられており、安全性が確保されているのだろうか、そしてこのような施設でエンターテーナー(!?)として一生を送る動物や魚は本当に幸せなのだろうか、等々。楽しさと平和さのうちに、そんな思いが頭の中を行き来した。

2013年10月15日火曜日

Rotring ArtPen


 このブログには「ページビュー」という統計が毎日出るが、この一週間ばかり去年の秋(121019)に書いた「カリグラフィーに魅せられて」がトップを続けている。1年も前のものがこんなに沢山の人に見られているとは驚きだ。それで、その後どんな風にカリグラフィーをやっているか、書いてみようという気が起こった。

 今一番力を入れているのは「ロットリング、カリグラフィー用アートペン」だ。(日本のリンクではロットとなっているが、「赤い輪」というブランドのドイツ語発音からはロートが正しい)。同社ではいろいろな用途のペンを出しているが、私はもっぱらカリグラフィー用しか使わない。これには1.1mm-2.3mmまで4種類のものがあり、別に依頼を受けたわけではないが、今日は一寸このペンの宣伝をしてみよう。

 特性メタルのケースに黒のカートリッジインキ5本入りで値段は20ユーロほどするから、日本の通販の2100円のほうがドイツより安い!ペン先のすべりは最高で書きやすいし、カートリッジ使用で一々インキを補充しなくて良いから作業に楽である。そんなわけで最近よく使っている。そしてこのペンでは、慣れればほとんどの字体が書けるはずであるが、その例はYou Tubeでも紹介されている。

 年の終わりも近づいてきたことでもあるし、英・独語でクリスマスと新年の挨拶状と、その他は年中使える誕生日カード作りに集中することにした。友人の名前をカードに書いてあげてもあまり使い道はないようなので、横文字の使用範囲はこれくらのところか?おかげで、これまでの所かなりの数のカードが出来上がったが、果たして今年中に全部必要になるかどうかは疑問だ。年号を入れなければいつでも使えるし、その他誕生日カードは毎月のように必要となる。

 このペン使うには便利であるが、今のところインキの色は黒、赤、グリーン、ブルーの4色だけ、その他の色が市販されているのか詳らかでない。おまけにペンを買った大きな文具店でも、「ロットリングのカートリッジインキは置いていません」ということで、代わりにペンのサイズに合うペリカンの3色を買わされた。6本入りで1.3ユーロは安いが(日本の通販ではロットリングインキは300-500円以上)色の具合はあまり満足ではないまま使っている。

 きれいなカードを作ろうと思えば、もうすこし色の種類が欲しい。そうなるとカリグラフィー本来の瓶入りのインキを買うことになる。私のもとには15色ほど置いているが、まだまだ足りない。しかし通常のカリグラフィー用ペンには、水彩絵の具を溶いたり、これを何色も混ぜたりして使うこともできるので便利だ。最近見つけて愛用しているのは perlmutt (pearlescnt=貝殻の内側にある真珠層)入りのインキで、書いたあとで表面が真珠貝のようにキラキラ光るのだ。下のカード、赤と緑を使ったのが判るだろうか?明るい電気の下でやっと判る程度かな?

 カートリッジでない場合は筆を使い、ある時はスポイトで数文字毎にインキをペンに補充しなければならない。そして色数本分を机の上に並べておくのだが、時にどこに何色を置いたかわからなくなる。そのための木製ペン置きが市販されているようだし、これは自分で木を削って作ることも出来るだろう。だが、先日日本からのおみやげの「高級えび煎餅」の箱を捨てようとしたとき、中敷の厚紙に気づいた。これをカッターで切って溝を作ればもってこいのペン置きになる!と。これがその成果だ。以後何本ものペンと筆が順序良く並び、作業中の机の上がよく整頓され、気分良く仕事が出来ている。賢い廃物利用ができた。

 下は、思いつくままにロットリング、カリグラフィー用ペンを使い、いろいろな字体で書いてみたもの。カリグラフィーは、ペン、インキ、紙等良い道具もさることながら、とにかく毎日の絶え間ない練習が肝心、きれいな文字が書けるようになる秘訣はこれしかないことを強調したい。



(今週末から、秋の学校休暇を使い日本旅行をしてきます。娘夫婦と子供=孫3人と我々夫婦2人、計7人の大グループで、移動日を含め9日間。しばらくお休みしますが、帰ったらまたブログで旅行報告します。)

2013年10月10日木曜日

風のボタ山


 「景勝公園」のホーエ・ボタ山のことは827日のブログに書いた。220ヘクタールもある膨大な公園にはもう一つ、ホッペンブルッフという名のボタ山があることに言及したが、時間がないので次まで延ばすと書いておいた。今回行ってみて、延ばしたのは正解であったことが判った。ここもかなりの規模の山だったからだ。

 前者の駐車場からまだ数キロ先の後者のボタ山には、登り口に案内掲示板こそあるが階段はついていない。しばらく登ると、歩行者用とマウンテンバイク用の道に分かれる。バイク道とはどんなものなのかと興味をそそられ、ちょっと寄り道して見て驚いた。走るのを難しくするためわざわざ凸凹にしたり、サーカス芸人でも怖じ気づきそうなタイヤ一本分と変わらない細いコースがあったり、ものすごい急斜面から疾走し、そのまま次の山へジャンプさせるような、難度◯◯の道の連続である。一寸失敗し転倒したら大けがでもするのではないか、と心配になる。平日のことゆえ、マウンテンサイクリングする人は見当たらなかったが、一人だけ中年のおじさんが徒歩者用の道を使って走っていた!

 歩行者の道はよく整備されている。10月ともなればドイツはもう晩秋の気配があり、紅葉があちこちに見られる。しばらく登ると前方に、近頃各地でよく見かける風力発電用風車の白いプロペラが見えて来た。後で判ったことだが、そこがボタ山の頂上だったのだ。

 ボタ山はそもそも石炭を取った後の捨て石の山のはず、風雨に曝されているうちに崩れ出したり時には発火したり、日本でも中国、英国等で大きな災害も起こっている。そんな柔(やわ)な場所に見上げるような発電用風車を造るとは!よほど地盤が強化してあるのだろう。


 それに合わせて、風車の前には「風の彫刻」作品があり、風をテーマにしてそれぞれ「風の森」とか「風の物語」とか「風の力」とか題がつけられている。この山上は良い風が吹くのか、その日も地上は微風ながら、風車は大きな音でよく回っていた。頂上からは数キロ先に8月に行った例の「水平観察所」のパイプが見える。

 しばらく休んだ後下山の途中後を振り返ると、いつの間にか頂上にたくさんのヘルメットが動いているではないか。それは別の斜面から登ってきた警察官の一隊だった。記録報告用のビデオカメラを回している女性警官に「いったい何ごとですか?」と尋ねると、警察機動隊の訓練だ、という返事だった。精々100mほどのボタ山はスポーツ選手や警察官のトレーニングにもってこいの場所らしい。

 空腹を抱え下山したが、ホッペンブルッフボタ山の麓にはレストランや軽食店は見あたらない。しかたなくホーエヴァルト山の下にあるレストランまで帰って昼食をとる。ルール地方の郷土料理として有名なCurrywurst(カレー味ソースをかけたソーセージ)は特にいい味だった。おまけにボリュームたっぷりの200g、日本風に言えば「大盛り」である。愛想の良いレストランのおばさんは私を遠来の日本人と思ったのか、デザートを無料サービスしてくれた。

2013年10月5日土曜日

Deichmann100周年記念式典



         (デュッセルドルフ・シャドー通りのダイヒマン靴店)
 Deichmann靴店のグリーンの看板はドイツ国内の諸都市いたるところで見かける。ドイツのみならず、この靴販売の会社は今日全世界20カ国以上に3000以上の支店と33000人の従業員を抱え、年間の販売数は16000万足、売り上げ高は40億ユーロを超える一大企業である。

 最初の店はEssen, Borbeck地区にある靴修理の店だった。靴販売の開店の年は1913年、店主の名前はハインリッヒ・ダイヒマンといい、妻のユリエと家族だけの小さな店だった。彼らの商売のモットーは「ルール炭田の貧しい労働者たちに、安くて頑丈な靴を届けよう」というものであったという。1940年店主が死去した後の店は、未亡人と4人の娘で続けられた。43年ソ連で戦傷を負って帰還した一兵士エルヴィン・フライシュラートがこの家族の次女エレンと結婚し、義母ユリエを助け靴の仕事に従事する。これが我が妻の両親である。後に社長・会長となるハインツ・ホルスト(我々はオンケル=おじさん・ハインツと呼んでいる)はこの家族の末っ子で、彼も兵役(少年兵だったろう)につき負傷兵となり戦後帰国する。まだハイティーンの若者であった彼はデュッセルドルフ大学で勉強を始めた。

 エッセン外の支店をデュッセルドルフ中央駅近くのアッカー通りに開いたのは1949年。まだ学生であったハインツと義兄エルヴィンは車で靴を運び、新支店での営業を開始した。一日の労働の後、2人が夜宿舎のベッドに横たわっていた時も、将来の企業家ハインツは自分の会社をいかに発展させるか、自分の夢を語り続け終わることを知らず、疲労困憊していたエルヴィンを寝かせなかった、というエピソードは義父からよく聞かされた。ハインツは学業を終え医学博士号を取得、整形外科医として開業するまでになっていたのは1956年のこと、将来医者として独り立ちするか両親の始めた靴の店を続けるかの決断をすべき時が訪れたのだが、彼は後者の道を選んだのだった。それから半世紀後、これだけの規模をもつ大企業となるとは、その頃誰が予想しただろう。

          (100周年記念式典会場のPhilharmonieの外と内)
 去る101Deichmann創業百年の記念会がEssen Philharmonieを会場として催され、我々も招待された。数時間におよぶこの式典で我々は、上のような商店・会社・企業の発展の歴史を再度詳しく知ることができた。出席者の中に企業関係の仲間や靴製造会社の代表が多く見られたのは言うまでもないが、政界の有名人も多く出席、エッセン市市長の他にここNRW州の首相ハネローレ・クラフト女史の姿もあった。彼女は式辞の中でDeichmannの社会貢献について感謝のうちに多くを述べていた。
        (壇上のクラフト州首相、パース市長、ダイヒマン親子)
 自由教会(ドイツ・カトリックにも新教にも属さない)の信者であるハインツは1977“Wort und Tat“「言葉と行い」という救済組織を造った。その目的は、世界各地の恵まれない人々のために、私費を投じて、救済の仕事をするところにある。救済を必要とする国、悲惨のうちに暮らす人々のため、病院・学校・職業訓練所等が建設された。現在まで援助を受けている国としてインド、タンザニア、モルダウ、ギリシャ等が挙げられる。その他ドイツ国内また世界各国での援助プロジェクトは枚挙にいとまがない。またハインツはキリスト教とユダヤ教、イスラム教の相互理解に尽力した功績のゆえにイスラエルの大学から名誉博士号を受けた。 「人生において多くの恩恵をうけたものは、その代わりにそれに応じて多く与えねばならないのです。自分の苦悩をまぬがれたものは、他人の苦悩を軽くし助けるために力をかさなければなりません」。神の愛、他者への愛を「言葉」で語るだけでなく「行い」でもって実践する、そこに救済組織“Wort und Tat“「言葉と行い」の根拠がある。
         (記念音楽番組を受け持ったエッセン交響楽団)
 1989年以来Deichmann社は息子ハインリッヒ・オットー(50歳、親類では彼をハイノーと呼ぶ)が社長職を引き継ぎ、ハインツは会長に退いた。記念式典ではハイノーの息子ザムエル(20)が紹介され壇上に3世代が並び立った。100周年を節目に、これからも同社が絶えず発展して行ってほしいと心より願うものである。
         (式典会場のロビーに陳列されたダイヒマンの靴)