2015年5月14日木曜日

ユダヤ人墓地の見学


 58日はドイツナチが70年前の1945年に連合国に降伏した日であり、ヨーロッパ各地で終戦記念式典が行われた。その日ナチ収容所から解放され、今日もまだ生きている多くのユダヤ人の姿がTVに映し出された。ほとんどが90歳代の老人だが当時はハイティーンか20代初めの若者だったのだろう、幸運と体力に恵まれ今日まで生存した彼らの語る経験談は、過酷な運命を経験した人間の言葉として心に迫るものがあった。

 その数日後デュッセルドルフ北墓地で「ユダヤ人墓地見学」というイベントがあることを知り出かけた。10年ほど前長女のユダヤ系の青年との結婚により、我々もユダヤ人と無関係ではなくなった。二人の孫にはユダヤの血も流れている今、このようなイベントにも無関心ではいられない。

 参加人数は40—50人の市民でその中には独特な帽子をかぶったユダヤ系の人も何人か混じっていた。北墓地は当市の管理下にある墓地だが、1922年創設のユダヤ人墓地はその一角にある。西暦2世紀に故郷を奪われディアスポラ(離散)の民となって以来ユダヤ人たちは、世界各国に移り住むことを余儀なくされた。彼らの定住地で最初にやったことは、集会のためのシナゴーグ(会堂)よりも永眠のための場所である墓地を造ることであった、という。この市内にも最初数カ所あった墓地は,市の発展・拡張のため1922年現在の場所に一つにまとめられたものである。









 
 埋葬の葬儀式を行うホール(Trauerhalle)で先ず講演を聴く。この建物の入口部分は第2次大戦でユダヤ人が大量殺害された各地の収容所の名前を記した記念室となっている。その中には有名なポーランドのアウシュヴィッツやドイツのブーヘンヴァルト(ワイマール近郊で私も訪れた)の名もある。ホール正面の壁には「主が与え主が取り給う。主の名は誉むべきかな」の聖句がヘブライ語で書かれてある。











 講演後グループは2つに分けられ数々の墓の前でその歴史を学んだ。入り口左側にある、墓碑もほとんど読めないほどの古びた墓はBetty von Geldernのもの。彼女は詩人H.ハイネ(1856年歿)の祖母であり、18世紀末か19世紀初頭には死没しているはずであるから、1922年創設の当墓地にはどこかから移されたものだ。










 第1次大戦で戦死したErvin Plattの墓碑には、ユダヤ人の象徴であるダビデの星と共にドイツ軍の鉄十字が記されている。彼は故国ドイツのために身を捧げ戦死したユダヤ人であることを誇りに思い家族がそうしたのだろう。しかしその後ドイツの政治情勢はユダヤ人にとって緊迫したものとなる。1938119日にProgrom(反ユダヤ主義暴動)が全国的規模で起こり、当市でも多くの会堂や住居、商店が焼き払われ、殺害された人も出た。その内の一人で、Marienstr.(以前当市日本人クラブのあった通り)にカフェ・レストランをもっていたPaul Martensの墓を見る。彼はその夜ナチにより殺害され、重傷を負った妻は町を逃れた。

 ProgromKristalnacht(水晶の夜)とも呼ばれたが、これは破壊された建物のガラスが月光に美しく輝いていた、というナチの宣伝文句によるものであるので今日のドイツ人は使うのを避ける。Progrom時期にはユダヤ人の経済状態も悪化したらしく、墓碑も簡素で墓石もないものが多い。ナチの大規模なユダヤ人迫害はこの時が皮切りであり、それが後年のホロコースト(大量殺戮)へとつながって行く。

 墓地の入り口から右側半分にはま新しい墓石が目立つ。現在デュッセルドルフ在住のユダヤ人は7200人、その9割は旧ソ連邦から移って来た人で、60歳以上が4割を占める。 彼らは以前の無神論的環境の中で「隠れユダヤ人」として生活を送って来た。新区画の墓は2つの大戦時代のものと比べると(また今日の一般ドイツ人の墓と比べても)実に立派で高価な感じの造りであることに驚かされた。以前は墓の周囲には少しの緑を植えるだけだったのが、今では沢山の花を飾って華やかだ。墓碑には多くのキュリル文字(ロシア文字)も見られる。当墓地で最も有名なのは下左の写真のPaul Spiegel(2006年歿)の墓である。彼は6年間ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長を勤めた人でTVインタービューで良く見かけた顔だ。










 その時墓地内をパトロールする警官2人が目に止まり「やはり、ここもそうか!」と心が重くなる。ナチとホロコーストを恥じ、二度と再びそんな事態は起こすべきでない、と今日のドイツ人は決心している。しかし残念ながら、そのドイツでは少数ながら未だにネオナチを奉じる人間がいて、町のユダヤ会堂、養老院その他の施設には常に警官を配置しなければならない状態が続いているのだ。

2 件のコメント:

  1. 三千男さん。そうですか。お孫さんの一部はユダヤ人クオーターの方ですか。(娘婿さんがもしユダヤ教とすると)、宗教的(特に娘さんは)にも、血族的にも取り扱いがなかなか難しいでしょうね。こういう墓地では、昔の考えで行くと火葬による埋葬でなく、姿を残す土葬でしょうから、受け入れドイツの立場では、ユダヤ系の人と子ども、お孫さんなどのためにも、歴史的に将来大きな墓地が必要に感じます。乏しい宗教知識ですが、ユダヤ教は、キリスト教やイスラム教等の元にもなった宗教で(いくら一神教といっても)排除するネオナチの考えがなかなか理解しにくいですよ。その人たちには平和に共存する考えはない?お孫さんは、ユダヤ教(ユダヤ教の人を指すらしい)でしょうか?イスラエル人(旧約聖書ヤコブの名前)の80%はユダヤ教だそうだそうですね。宗教論は貴君のようには行かないです。難しい。大阪の山さん

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    1. 娘婿の家族は、私の知る限り、超保守的なユダヤ人家族ではないらしいです。カナダ在住ですが自分の家ではキリスト教的なことを排除していないようです。子供たちのためだと思いますが、近所の子供と一緒にイースターエッグを庭で探したりしています。もっとも自宅にクリスマスツリーを飾っている写真は見たことがありません。他のドイツの孫たちと一緒の時はツリーの前でプレゼント交換もやっています。ユダヤ教の宗教行事では、一度父親とハヌカーの祭り(奉献の祭り?)をヘブライ語のテキストを口移しに真似してやっているビデオを見ました。とにかく子供たち今はあまり意識していないですが、成長するに従い悩んだり問題に直面するかも知れません。私はこの点はあまり心配していません。

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