この絵を初めて目にしたのはいつのことだったろう?どこかの美術館のショップで売っていた絵はがきサイズのものだった。左肩越しに画家を見つめている、出目ぎみの大きな目が左によっていて黒目にハイライトがついている。
何か話そうとしているのか、下唇が半開きになり、口の両脇にも小さなハイライトの点がある。顔全体に何か神秘的な微笑があり、大きな謎に包まれているような雰囲気がある。
作者も題名も知らない絵だったが,訴えかけて来る目に私は何か霊感に打たれたような気がした。
神秘的な微笑ならモナリザにもあるが、模写したいという気持はさらさら起こらない。しかしこの絵はなんとしてでも模写したい、という押さえ切れない強い気持に駆られた。後日この絵はオランダ17世紀の画家ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」であることが分かった。モデルの少女は一体誰だろう。それにこの衣装は?どうして当時のオランダの服装とはるかにかけ離れた、トルコ風の青いターバンとジャケットを身にまとっているのだろう。
1月半ば「真珠の耳飾りの少女」という映画が上映される、という広告を見たので映画館へ出かけた。実はこの題名の映画を私は以前一度観ていた。それはフェルメールの絵のモデルが誰であったかをテーマにしたトレーシー・シュバリエの小説に基づく、2003年製作のアメリカ映画だった。それによれば、モデルの名はフェルメール家の女中グリートである。絵の制作に光と影の重要なことを指摘し、構図に関して容易ならぬセンスを示すグリートにフェルメールは次第に魅せられ、取り憑かれたように彼女をモデルにして制作を始めアトリエに閉じこもったままになる。嫉妬に狂った妻がそこに入って見たものは、自分の真珠の耳飾りをしたグリートであった…。物語の概要はざっと以上のようなものだが、グリートがモデルであったことは美術史研究家によって受け入れられてはいない。モデルはフェルメールの長女マリア,妻、親族の誰かであったという意見もすべて否定されている。
とにかく今回見たのはその劇映画ではなく,題名は同じだが、名画そのものとそれを所蔵しているマウリッツハイス美術館に関する記録・紹介映画であった。美術館長を初め10数名の専門家による解説は実に明解適切であり、今まで疑問に思っていた数々の点を明らかにしてくれた。この絵で最も神秘性を秘めているのは目と口である、という解説には100%同調する。私が模写で最も苦労したのは目と口であった。この絵には謎のような神秘な要素があると同時に,セクシーな感じがある、純情さと同時に擦れた(すれた)所もある、という意見はどうだろう?私には同意しかねる所だ。ここにはアピール(訴えかけるもの)はあっても、それは肉感的なセックスアピールとは全く異なるものである、と思うからである。
モデルの名は分からない、否モデルはおらず画家が想像で自由に描いたものであるかもしれない。描かれている表情に一風変わった所が、時には誇張された所がある、そんな特長を持つ絵は「ポートレート」(肖像画)というよりは「トロニー」(Tronie)と名付けられる範疇に入る、という。これはこの映画から学んだ新しい点であった。この絵が描かれた17世紀は 海洋国として世界各地に進出し、大きな富を得ていた富裕国オランダの黄金時代であった。 そんな時期人々は自分の名声、権力、富を誇示するため競って肖像画を描かせその数は数百万枚に達したという。そんな中でモデル名も不明、制作意図も分からないこの絵は典型的トロニーと分類されるのである。
この名画を所蔵するマウリッツハイス美術館はオランダのデン・ハーグにあリ、ここから車で精々3時間ほどだ。ホテルは北海海岸の町スへフェニンゲンに取り、6km離れたデン・ハーグまで路面電車で行くのが面白いと聞いた。長年の夢である「真珠の耳飾りの少女」に会うために、2月に入ったらすぐに出かける計画を立てている。すでに昨夜ホテルの予約も取れた。