2014年5月29日木曜日

パイロット・パラレル・ペン


 先日You Tubeを使ってゴシック体の大文字を書く練習をしていた時のこと。普通のカリグラフィー用ペン(dip nib)ではない、幅は4mくらいで薄っぺらい金属片のペンを使って書いている人がいた。何とスムーズに気持ちよく書けることか!途中の極く細い線書きも持ち方を変えながら自由自在だ。それに何文字も何行も続けて書いているのに、途中でインキを補充している様子もない。カートリッジ使用のものだろうと想像はついたが、初めて見るタイプのペンだった。


 同じ日、画材・文房具の卸店Boesnerに行った時、似たようなペンを見つけた。軸にAUTOMATIC PEN MADE IN ENGLANDとある。これはカートリッジではなく、上下のペンの間(かなり大きく、少なくとも3mmはある)にスポイトでインクを入れるタイプのものだ。ペン幅4mm弱のものを買って早速試してみた。ペン先は柔らかく書き易いのだが、インキ溜めが大きいため最初は出過ぎて字がにじんでしまう。別紙に数本線を引いてからでないときれいな字が書けない欠点がある。そうするとその後インキの残量も少なくなり、またすぐ新たに補充しなければならない。

 その後いろいろ調べた結果、上のカートリッジ型のものは日本製のパイロット・パラレル・ペンであることが判った。これはどうしても欲しくなり、日本へ依頼して早速送ってもらった。現在のところ1.5mm2.4mm3.8mm6.0mm4種類があり、それぞれ異なった色のキャップがついている。構造は写真で見ていただくとして、それぞれのセットには赤と黒のカートリッジ各1本、洗浄用コンバータ−、ペン先クリーナーがついている。


 どんなペンでも使い慣れるまで少し時間がかかるが、最初の試し書きではイタリック体でもゴシック文字でも、パイロットのペンは良い感触で書けた。上手な人ならば「弘法、筆を選ばず」で、どんなペンを使ってもほぼ同じようなきれいな文字が書けるはずだが、ただ初心者にとっては、そのペンにどんな機能がついているかによって大きな違いが出て来る。特に練習をする時に数文字毎にインクを補充しなければならないのはイライラさせられる。そのため最近増えているカートリッジ方式のものが便利であることは言うまでもない。
 

 パラレル・ペンという名前だが、カリグラフィー用のペンはすべて(カッパープレート用のポイントペンを除き)2枚の金属板を「パラレル」に(平行に)重ねその間にインクが溜まるようになっている。ただパイロットでは、その2枚の隙間が肉眼ではほぼ見えないほど狭く、その上インキの出具合もスムーズだ。

 他のペンが真似出来ない、特筆すべきパラレルペンの特長の一つは、4つのどのサイズのペンも尖った端を使うと通常のボールペン並みの0.5mmの細い線が書けることだ。これは特にゴシック大文字を書く時の飾り線などに威力を発する。もう一つの優れた点は、色の異なる2本のペン先をタッチさせタップすると色が混じり合い、その後に書くと徐々に段階的に色の変わるグラデーション効果が得られることだ。今手元にインキの黒と赤しかないので、例でご覧の通りあまりぱっとしないが、12色ほど市販されているカートリッジをいろいろ混ぜて使えば、誕生カード、クリスマスカード作りに面白い味が出ることだろう。これでまた、カリグラフィーを使ってのカード作りに新しい楽しみが加わった。

2014年5月24日土曜日

古い歴史のあるボタ山


 2012年の秋以来、ルール地方のボタ山をすでに10箇所ほど見学したが、その各々の発端から歴史などをいろいろ勉強できたのは実に興味深い。今回訪れたのは、ルール地方に数ある山の中でも一番古い歴史あるものの一つとして知られている、オーバーハウゼン市「クナッペン・ボタ山」(Knappenhalde)である。

 前もって予習してみると、この山は8ヘクタールの面積しかないという。今までで一番大きかったのが160ヘクタールの「景観公園のボタ山」であり、その他もすべて3桁か2桁の面積をもっている。にもかかわらずこの山は高さ100m余もあり、とんがり帽子型をしていてオーバーハウゼン市で最も高い山である。


 元エッセンの女子修道院の所有したこの土地に、石炭の廃棄物が捨てられ始めたのは160年も以前のこと、ルール地方のボタ山で最古のものの一つである。その後絶えず廃棄が続けられ、第2次大戦後から50年代の終わりまでスラグ(鉱滓)、がれき、工業廃棄物の山が築かれた。その頃つけられたあだ名がイタリア語とドイツ語をつないでもじった“Monte Schlacko“(モンテ・シュラッコ=廃石の山)だ。60年代に入って初めてここを緑化しようという気運が起こり、ルール地方のボタ山美化・緑化運動の先駆者としての動きが始まった。憂鬱な灰色の山を新鮮な緑に変えようという運動が起こったのだ。


 住民が動員され手分けして盛り土をし、25万本という数の柳の若木が植えられた。植物に詳しい我が妻の話では、この山には成長が早く、自然に対して耐久力の強いアメリカ原産のニセアカシアが今日一番多く見られると言う。頂上までの道を歩くと深い原始林に入ったような印象を与えられる。植林も結構だが、余りに樹が繁りすぎるのもどうかということで、70年代に入るとここを庶民の憩いの場にすべく林道作りが始まった。「今日は小規模のボタ山だ。大したことはないだろう…」とタカをくくって出かけてきた我々も、その大樹と、白いニワトコの花に飾られた教会結婚式のバージンロードさながらの散策路に驚き、快晴の半日を大いに楽しんだ。


 102mの山頂には15mの展望台も造られ(今月11日に紹介した60mTetraeder展望台と比較すると、かなりの規模の差が、そして建造費の差がある!)庶民の楽しめるクナッペンボタ山が完成したのは1981年だった。山上からの眺めはすばらしいの一語に尽きる。ガスタンクを改造した美術館「ガゾメーター」と、1996 年完成のルール地方最大のショッピンモール「チェントロ」がすぐ目の前に見える。帰り道にはチェントロに立ち寄り、日曜日にも営業している沢山のレストランの中からオランダ風パンケーキの店を選び昼食をした。

2014年5月21日水曜日

シャツを2枚縫った


 洋服ダンスの中を見ると、これまで自分のために縫ったシャツ類が全部で20着ほどになっていた。町の洋品店で買わなくなって久しい。スタンダードに襟とボタン、カフスつき長袖のものから、縦襟、ジッパー、短冊あき、夏物の半袖までいろいろある。今までは市販の型紙をそのまま使って手早く縫っていたが、今度は少々野心を出して一寸変わったことをやってみたくなった。

 体格の小さい日本人のこと故、自分のサイズ46の型紙を使って縫ってもどうもピッタリ来ない。どうしてもブカブカ感が残るので、もう少し細めのシェープラインがほしいと思った。それで今回は自分で製図することにした。そのために、自分の背丈、袖丈、胸囲、ウエスト、ヒップ等を計り、メンズウエアの本を参考にしつつ型紙を作ってみた。バストサイズ÷64で前身頃(後身頃は+4.5)を割り出し、胸幅線、横背幅線とかも引いて、なんとか型紙を用意して2着縫ってみた。


 紺の地に大きな白い花の模様をあしらった生地は1m10€の安いもの、幅は140㎝なので1.5mで十分足りる。オレンジの方はアメリカ製でこのシリーズの生地は1m25€と一寸値が張る。それに幅は110cmしかないので2m買わなければならない。シャツ一枚の生地に50€の出費は一寸躊躇するが、ラッキーなことにこれは残りわずか数mしかなかったため店のほうで5分の1に値下げをしていた。それで2mが特価の10€で手に入ったのだ!


 自分の手になる型紙を使ったためか、いつになく慎重にゆっくり時間をかけ念入りに作業をしヨーク、タックもつけ、襟もカフスも割合恰好よく出来た。細かい部分縫いは手間がかかるが、私はその作業が好きだ。

 完成したものに袖に手を通してみる。シェープラインのおかげで体にぴったりと来るのは気持ちが良い。しかし、どこでどう計算間違いをしたのか、首回りが少し大きすぎる。それに肩幅が思ったように合っておらずこちらは少し窮屈だ。着るのにさして気にはならないが、どちらも1㎝から1.5cmの調整をした方が良さそうだ。「失敗は成功のもと」と言うから、これにめげないで、次の時型紙を作り直すとしよう。

 それとメンズウエアの本には、袖と脇を続けてしかも折伏せ縫いをするように図入りで説明してある。確かに専門家の縫った市販のシャツはそうなっている。これは次回に挑戦して解決すべく残された一つの点である。

2014年5月16日金曜日

Tetraederへ


 アウトバーンを北へ50キロ1時間弱走ると、ボットロップ(Bottrop)の町につく。ルール工業地帯のほぼ真ん中、且つては石炭の炭坑があった所だ。 寒い時期しばらくお休みにしていたが、久しぶりにその町のボタ山を訪れた。

 ボタ山の多くには麓から頂上まで何百段の階段がついているのだが、ここは最初の数十段だけで、あとは普通の山道となる。それも緩い傾斜でつづら折りに何キロも続いている。そんなにグルグルと迂回させなくても良さそうなのに、徒歩の老人や小さい子供たちのことを考えたのか、またマウンテンバイクやセグウエイを使う人を考慮にいれたのか。じれったくなった若者たちは、道を使わず山の傾斜を攀じ登る。


 この山は1969年から93年までの24年間に廃棄されたズリによって出来たもので徐々に植林がされた結果、今では緑に覆われた90mの高さを持つ小山になっている。そして頂上にある建造物こそ、ここに来る人がお目当てにしている60mの高さのTetraeder(テトラエーデル)である。

 この語は訳せば「4面体」。正式名称は「エムシャー川を展望するボタ山ハプニング」(Haldeereignis Emscherblick)という長いものだが、通常人はテトラエーデルと呼んでいる。写真で見られるようにピラミッド状正3角形が四面つなぎ合わされ4本の支柱の上に置かれている。支柱は9m210トンの鋼材を使ったパイプは全部で1.5kmに達する。これに約400の階段と3つの展望台のつく建造物で95年に完成され、当時で約1.4億円かかった。



 当日の山上は、地上でも何本かの樹を倒したほどの強風が吹いていた。それに時折小雨もぱらつく。話し声も届かないほどの耳にゴーっという風の音、少し揺れる階段を上り始めた我々は、第1展望台ですぐに諦めた。その上床は網目状になっており、登ってきた地面がいやでも目に入り足が震える。まだ上には第2,第3とあり、最上台は地上38mでおまけに傾斜して造られていると聞いて怖じ気づいた。


 当日最上階まで登っていた人もいたが、その数は限られていた。快晴で風も穏やかな日なら登ったかも知れない。エッセン、デュイスブルグの町も、ガゾメーター美術館、チェントロショッピングセンター、シャルケサッカー場も望める上からの光景はルール地方一だということだ。ライトアップされる夜の光景もすばらしいと聞く。また日を改めて挑戦してみたいものだ。

2014年5月12日月曜日

大木が倒れた!


 日曜日午前10時、アパートの玄関を出て通りに出ようとしたら…。すぐ前の歩道を車がゆっくり走っている。違反ながら、我々も含めここの住民が時々やるのだが、この朝はちょっと様子が違う。何台も何台も徐行しながら続いている。そこまで出てすぐ左側を見て驚いた、信じられない光景!強風で大木が倒れ自動車道路を塞いでいたのだ。

 樹はボダイジュ、樹齢は何年かわからない。我々がここに入居した時にはすでにあったから20年以上であることは確か。 何百年も生きるボダイジュのことだからそれよりずっと古いだろう。道路は北行き1車線南行き2車線で、空港から見本市へ行くタクシーが通るし週日には通勤車もあるので、交通量の多い通りだ。


 ご覧の通り、倒れた樹(12mの高さ、後で知った)のため上下線とも完全に交通遮断されたが、幸い(不幸にもか?)我が家の前の歩道はかなり広いので、南行きの車は通ることを許可され何十台(何百台?)が終わることなく次々とやってくる。丁度2年に一度の世界最大の包装機械関係Interpack見本市の開催中なので、来訪者を運ぶタクシーのかきいれ時の時間でもある。

 倒れたのは一体何時だったのだろう。我々の起床は休日の遅い8時頃だったが、大木の倒れる音は聞かなかった。週日なら通勤車のため渋滞も珍しくない時間帯だったから、樹の下敷きになる車もあったかも知れない。日曜日で車は比較的少なく、被難したタクシーもない、道端駐車で押しつぶされた車も家もない、災難にあった歩行者もない、本当にラッキーだったと言うべきだろう。

 2時間ほどドライブに出て我々が帰宅した時には、撤去作業が終わっていた。電動のこぎりで切った太い幹が転がり、根や枝と共に歩道の端に片付けられていた。春の訪れと共に新緑の葉も元気に出ていたのだから、樹が死んでいたわけではないだろう。地中に根が十分に伸びていなかった可能性もある。枯れる兆候があれば注意もしただろうが、倒れるまで誰も気づかなかった!ボダイジュ一本を除いて他に被害がなかったが、災難はいつやってくるか分かったものではない。常に注意していなければならない。



(追記 今朝のニュースによれば、昨日同じような事故で市消防署は12回出動した由。ここから数キロ離れた地区では倒れた20mの樹の下敷きになり家が壊れ5万€の損害が出た。月曜の朝、電動ノコの音がしていたが、我が家の前の樹の残骸はすべて撤去された。)

2014年5月7日水曜日

ゆっくり行きます!


Spiegel(シュピーゲル)誌414日号に載った記事“Nicht so hektisch“「そんなにせかせかしないで」

日本のモードチェーン、ユニクロ・ヨーロッパマネージャーTakao Kuwahara (46)ドイツ市場への進出と新しい悠長さ(neue Langsamkeit)について語る。

Sp:先週ユニクロ、ドイツ支店を開かれましたが、貴社のロケーションは競合社のZaraH&Mと余りに近すぎませんか。
K:我々は全然恐れていません。他の国でも同じように近くに店を開いております。それに我々は彼らと違っており、ユニークですから。
Sp:どの程度違っているのですか。
K: 我々のビジネスは、せかせかと気ぜわしく変化するモードチェンジに基づいておりません。どの年齢層にも合う、時代に制限されない日常の(カジュアル)衣料を主とし、もっとゆっくりした製品サイクルをもっています。
Sp:しかし親会社のファースト・リテーリングは2020年までに世界一のモードチェーンになりたい、と言っています。ずいぶんと野心的ではありませんか。H&M一つとっても、ドイツにはすでに400店以上ありますよ。
K:その通りです。それで我々はヨーロッパで発展するために長い時間をかけました。でもベストの店舗立地を探すのは実に難しいことです。それで探すのに長い時間がかかりました。イギリスではすでに2001年に開設しました…
Sp:しかし経営状態が悪くて、すでにいくつか支店を閉めておられますが…
K:イギリスでは、経済危機の風をもろにうけたのは確かです。でもすでにビジネスは上向いております。
Sp:ベルリン店はUnikat(ドイツ内の唯一店)とされるつもりですか。
K:先ずしばらくは、ドイツの顧客が弊社の製品にどんな反応を示すかを見てみたいです。その後にこの国での次の一歩を決めることにします。

(このブログ、すぐに投稿しようと思っていた矢先、妻がどうしても追加してほしいと…。「ハイファッションすぎて来年は流行遅れで着られないものではない、野暮ったくて着たくない色やデザインではない、1シーズンで色褪せたりよれよれにならない良品質、仕事で事務所に着て行くことができる、カジュアルでありながら時には目を見張るようなユニークなものもある、その上手頃な値段…。ユニクロの製品はそんな感じ。これぞ私が長年探し求めていたものです!」 一人のドイツ人女性の反応として…桑原さんにお聞かせしたいのですが…?)

2014年5月4日日曜日

From Tokyo to Berlin


 2日半のベルリン滞在中に我々は2度、新設開店したユニクロの店を訪れ買い物をした。(娘夫婦は3度も!1着20ユーロ以上のジーンズは無料で裾上げをしてくれるので、2日目に観光を中断して数時間後夕方にまた取りに行ったのだ!)


 春の日差しがまぶしいTauenziehenstr。店先でハッピを着たドイツ人女性従業員がティッシュ配りをしている。これはドイツでも時にはやっていることだが、何か雰囲気が違う。手渡す時に日本風に深くお辞儀をし、通行人に親しげに話しかけているからだ。


 店内に入る。開店が411日だったから、まだ2週間しか経っていない。地上2階、地下12700平米の店内はまだピッカピカの感じだ。階段の電飾は“From Tokyo to Berlin“を初め全世界の大都市名が、ずらりと並び右から左に動く。それを見つめながらうっかり歩くと目眩がして、ふらつくことがあるので要注意だ!新規雇用はざっと300人、それを3階に分け配置すると…?どこを向いても従業員証の名札をぶら下げた店員がいて、客の質問に丁寧に応えている。ドイツのデパートで何か訊きたくても店員が全然見つからないことが多いのとはずいぶん違う。この点について、経済雑誌"brand eins"(5月5日号)が、日本の良いサービスは狭い島国でお互い密接に関係しつつ生活することから生まれた美点であり、新開店のユニクロ・ベルリンが良い例である、と指摘している。


 試着室の前に長い列が出来ていたのは、客の数からして仕方がない。が、使い始めてからの応対の仕方に驚いた。妻が持って入った2着のジーンズのサイズが小さすぎる、ということが係員にわかると「お待ち下さい、大きいサイズのを持って来させます」と言う!孫たちの試着に時間がかかった時は、待っている親たちに「椅子を持って来させます。お座りになってお待ち下さい」という親切さだ!支払いの時、レジで他の客が23人前にいて一寸待たされた。番が来た時、係員が「大変お待たせして済みませんでした」と言ったのだ!ここはドイツか?!と耳を疑った。ドイツのデパート等では、料金を取って品物が渡されると「ありがとうございました」の挨拶もなく、客はそっちのけで店員同士のおしゃべりが始まるのが常だ。

 接客に関して、マニュアルがありそれに基づいてかなり日本式訓練がされたらしいことが良く判る。「このフリーサイズベルト、穴なしなのはどこにでもバックルのピンを刺せるというわけ?」という、簡単な質問に対し「只今マネージャーに訊ね確認して参ります」という回答。先刻の「…を持って来させます」を合わせ考えると、これもどうやら店の方針らしい。ユニクロ式なのか、上司、店長をトップにしたハイアラキー(位階制度)が徹底されているという印象だ。

 ドイツ最高のデパートKaDeWeを初め、世界的に有名な店舗の並ぶ高級ショッピング通りTauenziehenstr.に進出したユニクロだが、最初の半月はまずまずの出だしのようだ。カジュアル衣料の競争は激しいものがあるが、この通りの他の有名店は今の時期、気の毒なほどガランとしていた。今後の動きがどうなるか、まだまだ予断は許されないだろう。それとドイツ人従業員による日本流客応対・接客法がこれからも徹底して続けられるものだろうか、いろいろ考えさせられた。バッグに印刷された開店のモットー“From Tokyo to Berlin“が、今後どのように発展・実現していくか、気になる所ではある。