村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」がドイツ語に翻訳され販売が始まったのは1月9日でした。その1日前に出た週刊新聞"Die Zeit"の対談記事についてはこのブログで書きました(1月20日)。
その後日本の妹から日本語版を送ってもらい、私もやっと読むことが出来ました。読後感は…?「彼のワースト3に入る駄作」というような書評を読んでいたので、どうしても偏見をもって読むことになりました。これはフェアな読み方ではありませんね。読み易いことは確かですが、それは文章の性格からであって、あるドイツの書評が言うような「息もつかせず終わりまで魅了させる本」というものではありませんでした。読後にすばらしい感激が残り、いろんな人にぜひ薦めたい、という感想は正直言ってもてませんでした。
すべてがあまりに分からないまま残されているというのが一般的印象です。主人公多崎つくるが巡礼した結果心の安らぎを得られたのか、年上の恋人沙羅と結婚出来るのか、沙羅の付き合っている年配の男性は誰なのか、友人のアオもアカも今後仕事に成功するのだろうか、クロはフィンランドで幸せな家庭生活を続けられるのか、シロは誰になぜ殺されたのか、犯人はだれなのか、灰田はどこに行ってしまったのか…?あらゆる点がわからないまま物語が終わっています。それがシューリアリズム作家の村上春樹の手法だ、と言ってしまえばそれまでですが。書いた彼自身も「誰がシロ(ユズ)を殺害したのか、私も知りません」と対談で言っているから、多分それでいいのでしょう?
しかし「一つの物語が読者をより良い人間にしないならば、書く価値はないだろう」と村上は対談の中で宣言しますが、読者の私が読後により良い人間になったのだろうか、それに良い人間の「良い」とはどんな意味においてか?そんな疑問が起こりました。
村上の文章は外国語に翻訳し易い、という評をどこかで読んだことがあります。私も、確かにそう感じます(まだ数冊しか読んでいないので、そう言うのはおこがましいですが)。4章に「つくる」という名前の由来で漢字(作、創)のことが出てきますが、こんなところは翻訳者はどう取り扱うのだろうか、苦労するだろうな、と興味がわきました。ドイツ語訳を調べてみると、やはり原文からはなれた説明がしてありました。同音・同意で異字の場合(意味と発音は同じでも用いる漢字は違う、それによって与えられる印象も異なること)は多いですね。日本文学か日本学の専門家でしょう、訳者は「つくる」にはmachen(単に作る)と erschaffen(創造する)の2語を区別して説明しています。
さてドイツではこの本はどれくらい売れているのでしょうか、まだ統計は見ていませんが、DUMONT出版社(ケルン)は大々的に宣伝しています。町のあちこちに見られるこのLitfaßsäule(円筒型広告塔)にも、大きなポスターを見つけました。音楽会、美術・博物展、諸々の催し物の宣伝のために主に用いられる広告塔に、新刊書がこのように宣伝されるのは稀なことです。町でも「ムラカミを読んだ」という人はかなりの数です(若年層に多い)。この本が出版されムラカミファンはますます増えているかも知れません。
三千男さん。多崎つくる、とかいう名前は知りませんでした。最近の村上春樹はあまり読みません。私には、幾らか舞台が多彩、登場人物が理解しにくい、ストーリーがややこしいものですから。昔の彼の作品は、もう少し単純で、一般市民の言葉で庶民生活からくるもので理解が出来やすかったのですが。やや私には、観念的になったのかと思われます。大阪の山さん
返信削除春樹のストーリーはややこしいだけでなく、余りに幻想的(悪く言えば思いつき)な要素が多く、読者としてついて行けない所が多いな、という感じを受けます。今までまだ数冊しか読んでいませんが、今後さらに買って(輸入書籍の高値で)読み続けるか、今ちょっと躊躇しています。
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