2013年9月25日水曜日

インマーマン通りの変貌



 Immermannstraße(インマーマン通り)。デュッセルドルフに住む(住んだ)日本人にはなじみ深い通りで、ここを知らない人はないだろう。中央駅から北西に1キロほど続くこの道を現地のドイツ人は「日本通り」と呼んでいる。ドイツの通りには人名をつけたものが多いが、インマーマンが誰でどんなことをした人か、知っている日本人は少ないのでは?かく言う私も同じだったが、何年か前日本人会報に「通りの名にゆかりのある人々」というシリーズで1年間書くよう依頼を受け、その第1回目にインマーマン通りを選んだのだった。そのおかげで、彼の生涯について多少学ぶ機会が与えられた。カール・インマーマンは元々法律を学び官吏の職に就いていたが、19世紀前半デュッセルドルフに就任した後は、演劇場の創設をしたり、自ら小説を著したりして、芸術・文芸の部門で当市に大きな貢献をした人であった。

 この数年来この通りもかなり変ってきた。以前は日本の都市銀行が5行(富士、東京−三菱、住友、東海、北海道拓殖)、ホテル、デパート、レストラン、書店、食料品店が並んでいたので、週末には日本人が、そして日本びいきのドイツ人が、わんさと出かけてきていた。出かけてくる人の数は今日でもやはり多いが、上に挙げた店や建物の様子はかなり変わった。銀行は統合・合併・移転などによりすべてこの通りから姿を消し、デパート(三越)も撤退、ホテル(ニッコー)は資本系統が代わり、レストラン(日本館、大之屋)と書店(OCS)も大規模なものは立ち去った。食料品・食材店はまだあるが経営者はすべて韓国人だ。三越のあとにまた韓国系の食材店が開店する。通りの両側に軒並みにあった日本企業の事務所も、その後倉庫や生産工場を建設し郊外へ移転(発展解消)の結果、もしくは景気の後退で事務所閉鎖のため、去って行ったものが多い。

 何年か前Oststraße(オスト通り)から中央駅方面に左折し、この通りに路面電車を通すという計画を市が出したとき、総領事館(やはりこの通りにある)を初めいろいろな方面から「安全性等日本人の生活にいろいろ迷惑となる」と抗議が出された。この計画は結局実現し、それ以来路面電車は毎日走っているが、当時市当局に対しそんな抗議が出せたのは日本人(経済)に力があったからであろう。


 今年初めに北からインマーマン通りに入る自動車用高架線「むかで橋」が撤去されたことはブログ(125)に報告した。その橋の取り壊された一番端のところはしばらく残っていたが最近になり本格的な工事が始まり、この通りの1番地からすでに10番地台までが通行制限、迂回路が設定されているため、交通(特に自動車の)が困難となっている。車道は一車線となったばかりでなく、ここへ入るためにはベルリーナー通りをかなり走ってからUターンしなければならない。写真でご覧の通り、掘り起こされた土が山と積まれ、道路のあちこちに穴が掘られている。

 インターネット上に現れる市の建設プロジェクト計画からは、インマーマン通りが今後どのような新しい形を取るのか、詳しい情報が得られないので、我々住民はただ想像するしかない。車は地下のトンネルに入るのだろうが、中央駅に達するまでどの辺でまた地上に出るのだろうか?車道がなくなったスペースはどうなるのか、とにかく今は期待と不安をもって進行する工事を見守るしかない。

2 件のコメント:

  1. 三千男さん。インマーマン通りが変わってきたと言うお話は、最盛期を知っている私には幾らかショックです。なぜこのデュッセルドルフ市とインマーマン通りに日本企業が集まったのか、重工業華やかなりしころの思い出になりますね。またきっと、日本を基調に産業経済も盛んになり、日本企業が多くなる夢が再生するよう祈っています。大阪の山さん

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    1. 空港からもそんなに遠くない、中央駅はすぐ目の前という地の利からこの通りが選ばれたのでしょうね。そこにその他のインフラが、時間はかかったけど、出来上がって行きました。撤退が続いた一時期から見ると、諸企業も最近は少しずつ盛り返しているように思えますが?
      それと日本びいきのドイツ人のコスプレ若者たちが、毎週末にはこの通りを賑やかにしてくれます。

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