3月13日(火)デュッセルドルフ日本人学校の卒業式に出席した。この町に住むようになって30年以上になるが、自分の子供たちはドイツの学校に行ったので、この日本人学校の式に参列するのは初めてだった。
今日卒業したのは2クラス47名の6年生、その中に1年半前に渡独して勉強していた姪の息子がいて、晴れて卒業することになったので、この機会に出席することにした。そもそも卒業式なるものに出るのは一体何年ぶりのことだろう?今日の式の内容を見て、ずいぶんと雰囲気が変わった、という印象を受けた。
私の知っている卒業式では、成績優秀な生徒がいわばスターとなって、代表として卒業証書を受け取り、答辞を読むのが通常だった。その他にも皆勤賞、精勤賞等で表彰される学校を休まなかった健康な生徒もいた。ところが今では民主的になったのか、そのような役割や賞がなくなり、みんなが一律に平等に取り扱われるようになった。卒業証書は一人ずつ前に出て校長から個別的に受け取る。最初の生徒の時にこそ賞状の全文が読まれ後は名前だけだったが、47人全員がゆっくり壇上に上がり受け取り席に帰るまでにかなりの時間がかかり、式の大部分を占めた。
先生や職員、両親在校生への感謝を述べる答辞も、予め全員に台詞を振り分け平等に言わせるという方式だ。男子女子の声、大きな声小さな声、叫ぶような声消え入るような声等、いろいろな声が飛び交いこれは興味深かった。それに音楽(合唱)が加わり、卒業生在校生が交互に歌い交わし、また一緒に声を合わせる、というなかなか手のこんだ演出もなされていた。
校長を初め学校理事長、領事、日本クラブ会長4人の来賓祝辞があったが、旧来の伝統的祝辞が多く、どれもあまり感心しなかった。卒業をしていく子供たちになにか親しく語りかけて会話するという内容になれば、もっと良かったのではないだろうか。その点領事が自分の6年生の頃のこと、卒業式の思い出を述べたのは心がこもって何か訴えるものがある、と思った。
ここでは後3年義務教育の中学校が同じキャンパスに併設されているので、彼らの何人かはそのまま残るだろう。一方将来の試験地獄に備えるため帰国して、特別な中学へ進むものがあるかも知れない。いずれにせよ、若い彼らの将来に幸あれ、と心から祈る。
三千男さん。デュッセルドルフの日本人学校の懐かしい思い出が甦えりました。1975年頃、私のいた会社も当地に事務所を新設しました。駐在予定には学童帯同者もいたので、派遣側代表の事前視察でこの学校も訪問しました。当時学童数約100人位と聞きました。最近はちょっと減少ですね。三千男さんが日本人学校を訪れたというタイトル見て「そんな子どもがいるの?」とか「、でなければ訓示?」と一瞬驚きましたが、内容を見て、なるほどと思いました(笑)大阪の山さん
返信削除山さん、貴君が70年代にそのような事前視察に来られたとは知りませんでした。「当時の学童数100余名」とは全体でですか、それとも卒業生数?ここで書いた47名は新卒業生のみで、全体では500名ほどいるでしょう。90年代初期が日本人小中学の最盛期で合計1000人を超えていたので、卒業生数もほぼ100名になっていたと思います。
返信削除三千男さん、言葉足らずで説明が行き届かずすみません。1975年当時、まだインマーマンに新日鉄関連企業が集まりその従業員ご家庭が多かったと思います。私などはプリンツ アントンという中央駅近くの小さなホテルへ滞在しました。日本人学校児童全数で100人程度と記憶しています。小学部児童数かもしれません。その後バブルの進行などで、かなり進出企業数も駐在者も増えたと聞きました。日本人学校もどの位の数になったのでしょう。それに比べると今は多少減少かな、という印象です。大阪の山さん
返信削除山さん、面白いエピソードをありがとう。プリンツアントンは今でもあるようです。70年代で100人、90年代で1000人そして今では500人と、小中学生数も日本経済の動きに合わせて随分と変化するものですね。当校は義務教育ながら無料ではないので、生徒数が減ると授業料も上がり、保護者が悲鳴を上げる結果になっているようです!
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