2014年4月30日水曜日

ベルリン旅行(2)


 快晴で気温も上がったベルリン2日目の午前中は、孫たちの希望を入れて動物園行きとなりました。1844年開設ドイツ最古のこの動物園は、過去数回ベルリンを訪れている私も一度も入ったことのない所でした。


 バスから見える南入り口「象の門」は、ご覧のように中国風の造りです。なぜこの形にしたのか判りません。園内は折からの上天気に、開園早々家族連れで一杯の人でした。かなりの歩きになると思い、入り口でカートを借り(4ユーロ)手荷物やリュクサック、ジャケットを入れて運びました。これは正解で、最後には疲れ果てて眠り込んだ5歳のユリアの運搬車となりました。

 数多い種類の動物の中でも、この園を有名にしたのはホッキョクグマの「クヌート」でした。2006年の誕生、母クマが授乳を拒否したため、世界最初の人工哺育をされたことで知られています。クヌートは国内の人気者となり、記念切手も発行されました。しかし4歳という若さで(通常北極クマは動物園でも2030年は生きる)、ある日何百人という来訪者の目の前で死にました。フラフラと歩いているうちに堀の水に落ちそのまま死んだ、その時のビデオを見ると哀れで今でも心痛みます。脳に欠陥があったと言われています。この近くにはクヌートの記念銅像が建てられています。

 動物園の後は徒歩で「欧州センター」まで歩き、クーダムの「記念教会」を眺めながらKFC(ケンタッキーフライドチキン)の昼食をしました。そしてお待ちかねの「ユニクロ、ベルリン」での買い物です。この店の印象記は改めて一つのブログにして後日まとめて報告します。

 夕方までの数時間は観光の目玉ともいうべき、国会議事堂、首相官邸、ブランデンブルグ門等を徒歩で見て歩きました。

 宿舎に帰って夕食を済ませても、戸外はまだ明るい!そのまま寝るのはもったいないので、オスト駅からほど近いEast Side Galleryを見に出かけました。これはご存知、ベルリンの壁の東側に世界各国の美術家が世界平和を願って描いたものです。上の壁の写真の向かって左側が東側(East Side)になります。右側にシュプレー川が流れています。


 参与したのは21カ国から118人の画家、日本人は只一人宮武喜久恵さんで作品は「暗黒からの脱却」という題がついています。もう一点日本と関係のあるのは、東独出身で8090年代に日本に住んでいたThomas Klingensteinさんの「日本地区への迂回路」という作品です。中でも最も印象的で、世界中に知られているのはソ連のゴルバチョフと東独のホーネッカーが挨拶のキスをしている絵でしょう。

 ベルリンの壁設置が1961年で崩壊が89年、すぐ次の年の2月から壁に絵が描かれ始めました。「この壁に損傷を与えたり汚したりする者には罰則が与えられる」と掲示があるにもかかわらず、あちこちにかなりの数の落書きがあるのは残念です。その後オリジナル作品の維持が困難となり、2009年の修復作業により今日では模写の展示となっています。1.3キロにわたる展示物を見て歩くうちに夕暮れがおとずれ、夕日がシュプレー川を赤く染め始めていました。

2014年4月27日日曜日

ベルリン旅行(1)


 424日−26日、23日でベルリンへ小旅行しました。ICE(欧州インターシティ特急)でデュッセルドルフ、ベルリン間4時間弱です。出発から1時間半後、娘夫婦と孫3人は途中のビーレフェルトから乗ってきました。車内は4人向かい合わせで真ん中にテーブルのある、ゆったりした快適な座席です。


 宿舎は終点ベルリン東駅のすぐ前、妻の兄が事務所を構えているビルの中にあります。午後2時早速町の見物が始まりました。最初は、もう一人の兄がボランティアとしてガイドをやっているベルリン大聖堂の見学です。ここは入場料7ユーロかかるのですが、兄のお陰でサイドドアーから無料入場(!)、ガイドの鍵を使い普通の見学者が入れない皇帝の特別部屋まで開け、たっぷり1時間半見せてもらいました。クライマックスは270段の階段を登ったキューポラ(天蓋部分)の上から見たベルリンのパノラマでした。息は切れ、脚は痛むのを我慢して登ってきた甲斐がある絶景でした。

 現在ある聖堂は19世紀末から建設が始まりその後10年以内に完成しましたが、戦時中には爆弾により大きな損害をうけました。1975年に再建が始まり、2002年にやっと完成しました。ドイツ国内はもとより、世界のどの国の聖堂にもひけをとらない立派な建物は、実は新教(プロテスタント)の教会堂なのです。有名なカトリックのケルン大聖堂にも負けない豪華な新教(ルター派)教会堂を、という皇帝ヴィルヘルム2世の命令の元、イタリアルネサンス最盛期の形式で建てられたベルリン聖堂の外部と内部をご覧下さい。地下はホーエンツォレン家代々の墓所となっています。


 聖堂のすぐ横を流れるのは,ベルリンの中を44キロにわたって流れるシュプレー川です。平日であっても首都を訪れる観光客の数はやはり凄いものがあります。ドイツ語ばかりでなく、世界各国いろんな言語も耳に入ってきます。そんな人々に混じり「美術・博物館島」に沿ってドイツ国会等政府の建物が並ぶ地区を通って往復する観光船に乗りました。「あの辺にメルケル首相の住んでいる家がある、あれが世界遺産の博物館よ、国会議事堂の屋根も見えるね、テレビ塔の高いこと!あそこDBとあるのはベルリン中央駅ね、芝生カフェでビールやコーヒーを飲む人の楽しそうなこと!」等と言いながら楽しんだ1時間余の船遊びは、ベルリン旅行初日の忘れられないハイライトとなりました。


2014年4月21日月曜日

復活祭の散策


 Ostersonntag(復活祭の日曜日)は快晴のうちに明けました。その前日思いがけなく、カナダの娘からの花が届きました。嬉しいイースタープレゼントです!
 

 地方新聞RP(ライニッシェポスト)に載っていた「イースターサンデーの散策のために」という記事を見て、今日はZonser Grind(ツォーンスグリント)へ行くことに決めました。Zonsというのはケルンとデュッセルドルフの中間くらいのところにある、ローマ時代からの歴史ある可愛らしい小村です。ここは何度も訪れたことがあるので、今回はその少し手前にある初めての場所Grindだけを見ることにしました。

 Neußの町を出るとすぐにライン河は大きく流れを変え、また元のコースに返ると環状のカーブを作ります。その結果そこは半島のような地勢となります。それがGrindでありすばらしい緑地地帯が続きます。見上げるようなポプラの大木の並木道と黄色の花の咲き乱れる野原の連続です。

 半島の東側、ラインの対岸にバロック様式のベンラート城の森を望む場所に駐車し散策を始めました。気温も徐々に上がり20℃近くに達しました。河からの風が汗ばむ頬に心地良く感じられます。散策路にはかなりのサイクリングとハイキングの人が見られます。祭日にもかかわらず、大きなコンテナ船が忙しく河を上り下りします。

 歩き出してすぐ右手に並んでいたのは何十台かのキャンピングカーでした。ここは市営の公共キャンプ場なのです。面白いと思ったのは、エンジンつきの車と並んでテント造りで、ガラスならぬプラスティック窓のあるテラス部分がついていることでした。この日ほとんどの人は草原に椅子を出し、ライン河を航行する船を見ながらコーヒーブレークをしていましたが、寒い日や雨の日にはテントの中に座るのでしょう。こうして暖かい季節、一日の大部分を過ごすのです。


 キャンピング場には水道管も電気の線も備わっており、TV用パラボラアンテナが沢山見えます。あちこちに「空きがあります。お申し込み下さい」という掲示が見られます。町の中にある家庭菜園を思い出しましたが、ここの違う所は野菜畑、花壇、果樹が全くないことです。だから土に親しみ働いている人の姿はありません。みんなただ椅子に座り飲食、談笑しているだけです。ここは自然保護地区で「火気厳禁」の立て札も立っています。キャンプ場にはグリルの場所も作られていますが、これは違反ではないのでしょうか。選ぶとしたら私は絶対菜園の方を選びます。ただ終日座って河と船を見ているのは退屈極まりないことでしょう。



 散策の後は「フェリーハウス」というレストランで昼食です。ドイツ典型のスープとカリーヴルスト(ソーセージ)とを食べました。イースターディナーとしては少々お粗末でしたが、1時間以上歩いた後の空腹で大変おいしく味わえました。

2014年4月18日金曜日

花咲き鳥歌う季節


 今日(418日)はKarfreitag(聖金曜日)、今年の遅い復活祭シーズンが遂にやってきました。イースター日曜日と月曜日(2021日)まで、サラリーマンにとっては嬉しい四連休となります。


 花咲き鳥の鳴く良い季節です。今一番目につく花は紫色のフリージャーです。ムラサキといっても濃いものから薄いものまで、いろいろ種類のあることが判ります。フリージャーには真っ白なものもあります。今朝隣町Geresheimまでドライブし菜園を歩いて見た花と果樹の色と形の変化に富んでいること、正に花の春爛漫といった感じです。


 帰路田舎道のドライブの途中で見た目にも鮮やかな黄色は、この季節独特の風物詩となっている菜の花畑です。夏小麦のグリーンの畑とすばらしいコントラストを作って、見渡す限りの鮮やかな黄色の絨毯のようです。


 花と競うように小鳥も、我が家の庭の周辺で春の歌を聴かせてくれます。特に午前中の朝食時、窓を通し樹々の枝や叢林から聞こえる可愛い声は、一日の仕事を始める前の大きな励ましとなります。そんな鳥たちのために、と妻が数種類の餌(団子になったもの、容器に入ったミックス餌等)を買って来てバルコニーに吊るしました。その下には、鳥の水浴びのための水盤も置きました。

 そんな用意をしたその日の夕方、早速数羽の小鳥が来て餌をつついているのが見られました。300㎜の望遠レンズでとらえたのはシジュウカラのようです。水盤で水浴びにやって来たのは、驚いたことにカササギでした。これはもう大型の鳥でとてもこの陶器の水盤風呂には入りきれません!残念ながら、こちらはカメラを取りに走っている間に飛び去ってしまい撮ることができませんでした。

 その後気温が一桁に下がり、ドイツのある地方では降雪・積雪がありました。そのためか、小鳥の訪問がぱったりなくなりました。餌を食べたあとがないことはないのですが、そして私たちの目の前を飛ぶ姿は時々見られますが、餌のある所にはトンととまりません。数年前には、毎日のように大変な数の鳥がやって来ては、餌をひっきりなしに食べていました。それはもう少し暖かくなった時期でしたから、また鳥の子供たちが孵化すれば親鳥もひんぱんに訪れるようになるだろう、そしておいしい餌も十分たべてくれるだろう、と楽しみにしています。

2014年4月13日日曜日

ユニクロ、ペルリンへ進出


 ベルリンの中央にあるクーダム(KuDamm)は、日本なら東京の銀座に匹敵する高級専門店の立ち並ぶ通りだ。観光の名所になっているGedächtniskirche(記念教会)からほど近い所に、3階からなる2700平米の新しい店が開かれた(411日、金曜日)。その名は日本企業「ユニクロ」で従業員数は約300、ヨーロッパにおける最大規模で旗艦店となる店である。ユニクロを傘下にもつファースト・リテイリング・グループの社長・会長柳井正は、Zap(アメリカ) Zara(スペイン) H&M(スエーデン) Primark(アイルランド)等に追いつき追い越し、やがては世界一の企業にすることを目指している。

 同じ日(411日)ドイツの有力新聞フランクフルターアルゲマイネ誌に「己を変えよ、さもなくば死ね」(“Ändere dich – oder stirb“)という見出しの記事が載った。記者のCarsten Germisによれば、これがユニクロ本社の柳井の事務所前の廊下に掲げられている言葉である、という。本当にそんな社是を唱えているのか、と調べてみた所、ユニクロは「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」というのを社是としていることが判った。そうするとこの記者は本来の社是を意訳して、「これまでの日本式企業理念を変えなければ、やがて我々は死滅・消滅するだろう」という意味で、命令形を使ったこの穏やかならぬ見出しを書いたのだろうか?

 これまでの日本企業の常識を脱した経営理念でユニクロをここまで発展させた柳井は「寿司下駄にのせたビフテキ」と呼ばれる。記事に詳しく書かれている、この企業の歴史(発端から発展)のことは我々もよく知っているので省略しよう。

 我々自身も昨年末から今年にかけてユニクロ製品のお世話になった。私自身10年以上前日本で一度安いシャツを買ったが、今でも時々着ているのがこれだ。企業の変革と同じように、現在のタグも昔のものとかなり変わっている。去年秋訪日の際偶然見つけたのが、カシミア・フェスティバルをやっていたユニクロ銀座店。我が妻と娘は開店前半時間も通りに並んで待ち、店内に入って1時間以上も買い物を続けた。12月に日本出張をした妻はまた銀座へ、自分はULD(ウルトラ・ライト・ダウン)を私にはヒートテック下着を買ってきた。その後彼女は私のためにULDを英国ユニクロオンラインショップから取り寄せてくれた。そのおかげで私は、この冬(暖冬ではあったが)まったく他の防寒衣料を使わなくてすんだ。


 ベルリンに住む妻の兄からのメールによると、ユニクロ開店でクーダムは大混乱、道路規制もされたということだ。我々も娘夫婦と孫3人を連れ、来週後半ユニクロショッピングを含めベルリン観光を計画しているが、その頃には混乱も一段落していることだろう。従業員の取り扱い、労働条件等の点でブラック企業としてかなり叩かれているユニクロだ。その辺りのことは最近、今野晴貴著「ブラック企業、日本を食いつぶす妖怪」を読み大いに驚かされた。にも拘らずユニクロの勢いは飛ぶ鳥を落とすほどであることは誰も否めない。国内856店舗、国外512店舗までに発展したこの企業は今後どのようにのびていくのだろう。ドイツ内に更に多くの支店を開く計画がある、と聞いている。百万都市のミュンヘン、ハンブルグはもちろん、日本企業の多いデュッセルドルフにも進出して来る日も近いことだろう、と期待している。

追記、上のパラグラフ2で?をつけた箇所をはっきりさせたくて、更に調べました。その結果「柳井正名言集」の中に「変革しろ、さもなくば死だ」というのを見つけました!
Carsten Germis氏(59年ハノーファー生まれ)はFAZ誌の東京特派員ですから、ユニクロ本社で事実この文言が書かれた額(?)を見たことでしょう。ドイツ語(他の西欧語も)ではそのまま訳せないので二人称単数命令形を用い"Ändere dich - oder stirb"「お前自身を変革しろ、さもなくば死んでしまえ」となったわけです。

2014年4月8日火曜日

残り布を使って(続き)


 先日端布から12cm x 12cmの正方形を100枚以上作り、それに縫い代1cmを与え縫い合わせパッチワークをしました。そこから最終的に 1m平米強の布地が出来上がり、それを使って孫用のフードつきコートを縫ったことは、316日のブログ「残り布を使って」で書きました。

 出来上がったものを早速孫宛てに小包郵送しましたが、着いたという返事がなかなか来ませんでした。しびれを切らして「コートは着いたの?サイズなどユリアによく合っているの?」とこっちから電話しました。「もうピッタリでよく似合っている。すぐに写真を撮ってメールに添付して送ったわよ、見なかったの?」とママ(私の娘)の返事!なにかの事情でメールが届いていなかったのです。


 さっそく再送付してもらったのがこの写真です。想像していた通り、可愛らしく良く似合っています!38㎝と聞いていた袖丈がちょっと長いかなと思いましたが、子供の動きのためには短かすぎよりベターだ、ということで安心しました。


 生地を準備し、裁断し、縫い終わるまで1週間から10日ほどはかかりましたが、出来上がってみるとそんな苦労も忘れます。これくらいのコートは、日本のインターネットのオンラインショップ等で見ると、生地の質によりますが大体40008000円ほどの値段がついています。私の場合出費は40㎝ファスナー15€と裏地 10€の計15€のみ、でもかかった労働時間を加算すると買った方がむしろ安くなったでしょうか?

 「大量生産ではない、世界に一着しかない洋服の価値は計り知れないものがあります。お孫さんも喜んでおられ、きっといつまでも大事にするでしょう」なんていろんな人にいわれると、こちらも嬉しくなります。「ユリアも大得意で、幼稚園で先生やお友達に、『これ、オパ(Opa=おじいちゃん)が縫ってくれたの。私一人だけのために』(3人姉妹の末っ子で、洋服はいつもお下がりが多いのです)って言ってるわ」とママから報告されると、また今度もなにか縫ってやろうか、と気持ちが上がって来るオパです。