2013年1月25日金曜日

来るもの、去るもの



 デュッセルドルフの中心街Jan-Wellem Platzに現れたKö-Bogen(20125月、7月既報)の建設進行状態が早く、前の方はもうほとんどに壁とガラスが入った。工事が残るのは裏面だけ、この分だと数ヶ月後の2013年秋口には、4万平米にわたり専門店、レストラン、オフィス等の営業開始となるはずである。

 この建物のすぐ横を走る高架自動車道、通称「むかでストリート」の取り壊しがいよいよ来月から開始される。ライン左岸から橋をわたって来る車も、北の空港方面から来る車も必ず渡るこの高架線が消えるのだ!今後日本人通りインマーマン通りに入るにはどうするのだろう?

 すでにアルトシュタット方面には、ギャラリア・カウフホーフとプレイガイドの間にトンネルが通じ、沢山の車が上がって来るのが見られる。こんな風に、市の中心地では車も電車も地下にもぐってまた地上に出る方式が取られるのだろう。道路上の交通機関が地下にもぐったその後には大きな建物が立ち、緑地も出現するはずだ。

 Kö-Bogenの背景にある「テユッセンハウス」が実に寂しそうに目に映る。もう何ヶ月も無人のオフィスビルとなっているため、全然活気が感じられない。「3枚のガラス板のビル」(前後から見ると大きなガラス板3枚で覆われているように見える)とも呼ばれるこのデュッセルドルフの象徴みたいな建物は私の好きなものの一つだ。94mの高さこそ最近になって出現したビルに追い越され3位になったが、形としてはすばらしくエレガントだ。ここにはルール地方の工業、鋼業の巨人である2社、テユッセンとクルップが長年オフィスを構えていたが、最近になってそれぞれの出身地であるデュイスブルグとエッセンに帰ることになったのだ。これでデュッセルドルフのプレスティージ(威信)が失われた、と嘆く市民が多い。

 今日ホーフガルテンから見てみると、この建物の側面がばっさり剥がされているではないか!すわ、この建物が取り壊されるのか?と恐れたが、妻からの情報によれば、新しく改造して貸しビルになるという。絶対に取り壊して欲しくない建物だ。

 年々歳々、町にも新しいものが出現し、また古いものが消え去って行く。以前デュッセルドルフにお住まいだった方々、今度お出での時、迷子にならないよう十分お気をつけ下さい。

2013年1月14日月曜日

ユーハイム物語


 ドイツの経済雑誌brand eins“ 元旦号は「好奇心を持とう」特集で、そこに「おふくろの味」(Wie bei Muttern)と題した記事に目がとまった。副題には「バウムクーヘンはドイツの特産物、しかしこの菓子がもっとも人気があるのは日本だ」とある。3ページにわたる長い記事は、このドイツ菓子を日本に紹介し広めた菓子職人カール・ユーハイムの「驚くべきキャリア(経歴と成功)」を取り扱っていた。

 時は20世紀が始まったばかりの頃、場所はライン河畔ローレライの岩からわずか10キロほどの所にあるカウプの小村だ。ライン河の中にある小さな島に建つ、かつての通行税徴収所プファルツ城と背景のグレーフェルの古城で有名な観光地だ。今日でも人口は800ほど、100年前にはどれほどの人間が住んでいたのだろう。

 この村に住むユーハイム家の13人兄弟で10番目のカールの将来は明るくなかった。「これだけの兄弟がいたら、俺の遺産取り分はどうなる?」と、自力で一旗揚げようと出かけたのが中国の青島だった。そこで店を開き商売が上向き始めたとたん第一次大戦でドイツが敗れ、彼は捕虜として広島の収容所へ送られた。そこで働いていた1919年のこと、折から開かれた国際ドイツ物産展に彼はバウムクーヘンを展示しそれが日本人の間に大きな成功をおさめたのだ。自由の身となった翌年、ドイツから呼び寄せた妻エリーゼと共に横浜で菓子店を開いた。しかし関東大震災(1923年)のためまたまた移転を余儀なくされ、開店したのが神戸だった。

 神戸でその後22年間カールはパン、タルト、そして後日この店の看板商品となるバウムクーヘン(最初は「ピラミッドケーキ」と言った)を焼き続けた。店が繁盛するにつけ、日本人従業員を雇い彼らをドイツ式に訓練した。ユーハイム夫妻が死去した後、彼らがこの店(企業)を受け継ぐのだが、この記事のインタビューの相手である河本武氏現社長も最初の従業員の一人の家系から出た人である。

 ユーハイムの店の繁栄はまた第二次大戦によって阻まれる。1945年原爆投下の数週間後にカールは他界し、エリーゼも本国送還となる。しかし河本氏の父親を中心としてユーハイムは再建され、8年後にエリーゼを社長として迎える。息子の武氏自身もドイツに留学し菓子作りの技術を学んだが、帰国後彼のやったことはユーハイムの全商品にドイツ語の名前をつけ、全体をドイツ風の店(企業)にすることだった。「ピラミッドケーキ」転じ「バウムクーヘン」の誕生となる。エリーゼが死去したのが1971年、ユーハイム夫妻は文字通り日本の地に骨を埋めたのである。「驚くべき経歴・成功」というこの記事の副題は実に適切である、と言わなければならない。

 70年代にユーハイムの名のついた店は300ほどだったが、今日年間300億円ほどの売上高を誇るこの大企業のその後の発展状況については書く必要はないだろう。今日ではドイツ菓子のみならず、ウイーン、フランス菓子のために別個のローゼンハイムとペルティエの商標をもつ品も販売する。詳細にわたる歴史はWikipedia日本語版を参照されたい。

 「バウムクーヘンはドイツであまり見かけない」と記者が書いているように、確かになじみの薄い菓子かもしれない。ドイツ人の我が妻も「学生時代日本で初めてバウムクーヘンを食べた!」と言う。しかし日本人が多く住むデュッセルドルフでは需要があるのか、有名菓子店ハイネマンに置いてある。値段は1キロ46ユーロで、日本のそれは5300円弱だから大した違いはない。この写真の品で300g弱、約14ユーロだった。一度日本のものと並べて味比べをしてみたいものだ。ユーハイム高級品の「ケーニクスバウム」は7000円になるだろう(ユーハイム通販価格で調べる)。きれいな化粧箱、筒、缶などの費用が込まれているからだろうか。

(追記:「ユーハイム」は、元の綴りはJuchheimであり、カナ表記では「ユッフハイム」に近い。しかしこのフもfuhuではなく、我々の苦手とする喉の奥で発音する子音のchである。創業当初から、日本人に易しく発音出来るようにユーハイムとしたのだろう。ドイツでも珍しい姓らしく、デュッセルドルフの電話帳では0、ベルリンを初め国内の百万各都市でも2、3名しか見られない。)

2013年1月11日金曜日

廃物利用?


 もうかなり以前、パッチワークをするグループに入っていた時のことです。ある日メンバーの一人が、店じまいをする内装専門店から見本(サンプル)布を車のトランクに一杯もらって来て皆に分けてくれました。カーテンやクッションを買いに来る客に見せるための布見本で、写真でご覧のように何十枚かを綴じた大きな本のようになっています。

 私も数冊もらって、その中から気に入った柄や模様の布を切り取っては時々小物を作っていました。その後は地下室に置いてありましたが、年末年始の暇な時にこれを整理することにしました。先ず外枠をばらす仕事ですが、大きな釘を使って綴じてあったので大変な作業となりました。1時間以上かけてやっと布を一枚ずつ取り出すことが出来ました。その枚数は60枚以上ありました。大きさはサンプルにより60x62cmから56x45cmまでありまちまちですが、サンプルなので同じものが2枚なく、すべてが違った模様なのです。時には同じ模様プリントであっても、色合いがまったく違うのです。

 先ず布をほとんど切らずにそのまま使って作れるものを考えました。最初はランチョンマットで、表裏2枚の布の中にボリューム芯を入れパッチワークのようにミシンで菱形の模様で縫い合わせ、周りにパイピングをしたらしっかりしたマットが出来上がりました。次は布を40x40cmサイズに裏表2枚切って、30cmのファスナーをつけてソファーや椅子のためにクッションを数枚作りました。中味はデパートで数ユーロで売っています。

 子供部屋用のサンプルは可愛いものがいっぱいあり、これを使ってトートバッグを作り、孫や近所の小学生のプレゼントにしました。バッグには表布裏布1枚ずつが必要ですが、小さいサイズの布で丁度片面が出来、さげ手も2本取れます。沢山ある柄の中から自分の気に入ったものを選ばせたので、出来上がった時の女の子の喜びは一入でした。

 一枚一枚模様は違っても色合いが似ているものが数枚あったので、それを4枚つなぎ合わせて少し大きいものも縫うことが出来ました。それがこれ、妻の夏用半袖のジップアップジャケットで、暑い時期に彼女は喜んで着ています。必ずしも同系統のものではなく、まったく違う布を大胆に縫い合わせても、思いがけなく変わったモダンなものが出来るかも知れません。

 サイズと模様プリントの制限はありますが、サンプルの布地はすばらしく良い質のものであるので捨てておくのはもったいない次第です。粗大ゴミで捨てられる運命にある布サンプル、なんとかこれで出来るものを探し出し、これからも面白いものを縫って行きたい、と思っています。

2013年1月4日金曜日

新しい年の始まり


 新しい年が明けて今日で3日、カナダの孫一家が帰国しました。1217日に到着してから全部で18日のヨーロッパ休暇でした。

 3歳と7歳の子供を2人連れての旅行は本当に大変だ、ということがわかりました。下の子はまだバギーに乗せることが多いのでバギー持参。それにドイツではキンダーシートを持っていないとタクシーに乗せてもらえないので、それも2個持って来たのです。衣類はもとより、履物、玩具類までいろいろ詰め込んだ数個のスーツケースははち切れそう、それにこの時期に絶対必要な、クリスマスプレゼントまで運んで来たから持ち物はいっそう増えました。皆にプレゼントを配ってやれやれと思ったら、今度は数軒の親類からそれぞれプレゼントのお返しを貰い、荷物は往きよりも増えてしまって、スーツケースをもう一つ買う結果となりました。空港でのチェックインでは係員が苦笑いするほどの量でした。

 今日デュッセルドルフ12時半発の飛行機で出発、途中アメリカのシカゴで乗り換えです。終着地がカナダなのでアメリカで一度税関チェックがあり、荷物はエドモントンまで直接行かず、検査のために全部を一度シカゴで出して税関カウンターまで運ぶことになります。このことを知らなかった両親は「やれやれ面倒なことだ」と驚きウンザリしていました。

 彼らを見送って帰宅した午後、静まり返った我が家で一人寂しい思いにふけっていた時、ドアのベルが鳴りました。客は近所の子供たちで奇麗なお揃いの衣装をつけた3人の博士でした。その内の一人は顔を黒く塗った黒人の博士です。聖書マタイ福音書に出て来る東方からキリストの誕生を祝いに来た「3人の博士」(Drei Könige)の日は今年は正式には6日(日曜日)のはず。なぜ今日にしたのか、聞きそびれました。彼らはこの日に因んだ歌を一曲歌い、(20 C+M+B 13)の祝福の文字をドアの上につけて行ってくれました。CMB3文字の意味は“Christus Mansionem Benedicat“「キリストがこの家を祝福されますように」というものです。(この教会の祝日については20121月のブログに詳しく書いたので参照して下さい)


  新しい年、皆さんのご一家に豊かな祝福と恵みがありますようにお祈りします。